教会の暦は、受難週とイースターが、毎年春分の日を過ぎて巡って来るが、春の訪れとともに、復活の喜びの日を迎えられることは真に幸いである。今朝は、主イエスの十字架への道を心に留めながら、福音書の中より、受難週に主が語られた教えに耳を傾けてみたい。福音書の記述の大半が、最後の一週間の出来事に焦点が当てられており、受難週に語られた教えは、主がこの世に来られた目的や意味が明らかにされる、とても大事なものである。主イエスは特別な思いを込めて、人々に教えを語っておられたのである。
1、主イエスは、折々にご自分がこの世に来られた目的を語っておられた。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10) 受難週を前に、エリコの町でザアカイを救いに導かれた時、はっきりと語っておられた。初めからそのために来ておられたが、いよいよそのことがご自身の中でも鮮明になり、エリコから進んでエルサレム入城となった。真の王としての入城であったものの、ろばの子に乗るイエスの姿に歓喜した群衆は、幾分戸惑いを隠せない、そんは受難週の第一日であった。イエスに敵対していたユダヤ人の指導者たちは、群衆を敵に回したくはなかったので、イエスとその弟子たちを、苦々しく見ているのであった。
二日目と三日目、主は勢力的に宮で民衆に教えを語り、福音を宣べ伝えておられた。神に立ち返るよう、罪を悔い改めて神を信じなさい、私を信じなさい、「人の子は失われた人を捜して救うためにきたのです」と招いておられたのである。(※ルカ5:32)そのようにしていた所に、ユダヤ人の指導者たちは割り込み、論争したり、反撃の糸口を見つけようと対抗していた。その第一弾が20章1節〜8節の「権威論争」であった。一体誰の許可を得て宮で人々に教えているのか・・・とばかり問い詰めた。主は問いには問いをもって対抗し、彼らの勢いを押し止め、人々に教え続けられた。それが9節以下の「ぶどう園の主人と農夫のたとえ」である。同じ日に多くの教えを語り、他にもたとえを語っておられたが、ルカの福音書はこの教えを先ず記し、主イエスがどんな思いで、十字架への道を歩んでおられたかを伝えようとしている。
2、「ある人」と言われたぶどう園の主人は神ご自身を、「ぶどう園」はユダや人たち、「農夫たち」は民の指導者たち、度々遣わされた「しもべ」は旧約時代の預言者たちを指して、この譬えは語られた。旧約聖書の時代を通じて、神は民を心に掛け、民の信仰が確かに実を結ぶことを願い続けておられた。指導者たちは、民の心に確かな信仰が芽生え、豊かに育って実を結ぶことのために労する筈であった。主人はそのように農夫たちにぶどう園を託し、何年かした後に、収穫の分け前を得ようとしもべを遣わしたのである。ところが、農夫たちは何を思ったのか、主人が遠くにいることで気が緩んだのか、「しもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。(9〜10節)それが無礼極まりない悪行であるとは思いもせず、何食わぬ顔をしていたようである。
主人はとても寛容で、直ぐに怒ることはなく、次の収穫の時、別のしもべを遣わしている。ところが農夫たちは、今度も「しもべを袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。」(11節)以前に比べて、「はずかしめ」はエスカレートしていたようである。主人はそれでも忍耐強く、三人目のしもべを送った。けれども、農夫たちの無礼さ、身勝手さは一向に止むことなく、このしもべにも「傷を負わせて追い出す」始末であった。(12節)農夫たちは、主人がいることを忘れて、収穫の分け前を自分たちだけで得て、我が物顔のように振る舞っていた。主人は考えた末、「よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう」と息子を遣わすこととした。農夫たちを尚信じ、「愛する息子」を送ったのである。(12節)
3、しかし、農夫たちはその息子を見て、彼を殺せば「財産はこちらのものだ」と、彼を外に追い出し、殺してしまった。(14〜15節)主人の寛容を理解することなく、主人はもういなくなったと錯覚したのか・・・。息子を殺してしまえば「財産はこちらのものだ」と、全く欲深い思いに凝り固まっていた。主は言われた。「こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。」答えは、ほとんど誰の目にも明らかである。裁きは歴然としている。(16節)聞いていた民衆は、「そんなことがあってはなりません」、主人の愛する息子を殺すような農夫たちがいてはならない、そんな不幸はあってはならない・・・と言い切ったのである。主は人々を見つめて、語り続けられた。聖書の言葉を引いて、そのあってはならないことが起り、あなたがたは全く意外な出来事に出食わす、そのことの前に全ての人の心の思いが明らかにされ、神の裁きに必ず直面する、と警告を発せられた。十字架の死と死からの復活のあることを暗示しておられたのである。(17〜18節)
主はご自分が天の父の「愛する息子」であることを、はっきり自覚しておられた。民の心を父に向けさせ、信仰の実を刈り取るために遣わされたことを知っておられた。その上でこの譬えを語り、実際にご自分が退けられ、十字架で命を落とすことも分っておられた。受難週の全時間、そうした救いの全容を心に留めつつ、民に語り、また弟子たちに語り、敵対する者たちと相対していたのである。私たち、今聖書を読む者は、「愛する息子を送ろう」と御子イエス・キリストを世に遣わされた父なる神の御思いとともに、譬えを語って人々に迫られた主イエスの思いを、どれだけ受け留められるかが問われている。農夫たちのように、神に敵対している自分はいないか、神なしで生きようとしてはいないか。そのまま自分の思いで生きようとするなら、やがて復活の事実の前に裁かれる者となり、取り返しがつかなくなることを分っているのか・・・と。
<結び> 主イエスは、父なる神が世に遣わされた「愛する息子」であった。「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と、父なる神が明言された方である。(ルカ9:35)その御子にこそ、人々は信頼して聞き従い、この方とともに歩むように招かれていた。十字架の出来事は、主が語られた譬えの通りの悲しい事となってしまった。けれども私たちは、その後に主がよみがえられ、死から復活された出来事を知らされている。私たちは、遣わされた神のひとり子、父なる神が愛して止まない、「愛する息子」を信じるように招かれているのである。よもや退けることはないだろうと送られた方である。この方を信じて受け入れること、そして主人である神のためにこそ、心を込めてお仕えする者として生きること、そのことを主イエスが私たちにも望んでおられるのである。受難週の一日一日、主イエスが歩まれた日を思い、また主イエスの思いを心に留めながら歩むことが導かれるよう祈りたい。
|
|