礼拝説教要旨(2010.03.14)
幾千の金銀にまさるもの
(詩篇 119:65〜72)

 この詩篇119篇の記者は、正しく「詩人」と言うに相応しく、多くの経験を経て、人生の酸いも辛いもよく知る、そんな人物であったことが伺われる。彼は果たして何才位であったのだろうか。第九の段落では、自分の歩んできた日々を思い返し、苦しかったことを思い出すとともに、その苦しみの中で、一層、「神のことば」に心が開かれたことを心から感謝している。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(71節)このように人生を振り返るのは、若くしてはなかなか難しいこと・・・と、そんな思いにもさせられる。

1、けれども、この人は、「主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました」と、神の恵みの数々をしっかり心に刻んで生きる人であった。彼は自分の歩みを振り返る時、折々に「みことば」が約束している通りに、主が手を差し伸べ、道を開き、良いものをもって支えて下さったことを思い出すことができた。必ずしも、主の助けは、呼べばすぐ・・・というわけではなかった。しかし、後になって明らかになることは、主が「良くしてくださった」確かな事実であった。それで尚一層、「よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから」と、祈りが導かれるのである。(65〜66節)

 この人は若い時から、「よい分別と知識」があったわけではなかった。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」(67節)人は分別が着くようになるのに、かなりの年数がかかる生き物である。けれども、その年令に達したからと言って、分別が着くものでもない。本当の意味で「成人」になるのはいつなのか、答えを出すのは難しい。罪を持って生まれる人間が、神に服従することを学ぶのは難しく、神に背いて高ぶることを、驚く程容易に身に着けるものである。何かの壁にぶつかり、挫折を経験することがなければ、決して従順を学ぶことはない。それ程に人の心は頑なで、砕かれるのを嫌うもの・・・。しかし、苦悩して、この人は神への従順を学び、神の恵みに心が開かれたのである。

2、「あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。」(68節)生ける神がいつくしみ深くあられ、何時如何なる時も「いつくしみ」を施されると、心から信じるまでにこの人は到達していた。そこに至るまでには、多くの人と同じように、紆余曲折を経たに違いない。苦難に会って喘ぎ、神を恨みさえしたことであろう。助けがないことで絶望しそうにもなったに違いない。彼を責める者の悪意は鋭く、偽りの中傷は只ならぬものであった。しかし、彼は、神の戒めを思い出していた。「高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、私は心を尽くして、あなたのいましめを守ります。」(69節)

 それにしても、偽りをもって中傷する人々の存在は心痛むことであった。彼らが心を入れ変えてくれたら・・・と何度願ったことであろう。「彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。」(70節)肝心なことは、彼らの心が変ることではなく、自分の心が何処を向いているかであった。私が「神のことば」を喜んでいるか、そのことこそが苦難の日に大きな力となるのであった。「苦しみに会ったこと」によって、確かに知り得たことが、その人の宝となるのである。苦しみに会って霊の目が開かれると、神の教えが私を生かすこと、「神のことば」が私の力と、具体的に学ぶことができるのである。「神のことば」は只知っているだけでなく、生活を通して、具体的に体験して、いよいよ身近なものとなるのである。(71節)神が私にして下さった「良いこと」を、どれだけ心に刻んで歩むのか、それが私たちの人生を左右すると言える。(詩篇103:1〜5)

3、こうして、この段落は次のように結ばれる。「あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。」(72節)この世のどんな宝も、それがどんなに高価で、溢れる程の量であっても、「神のことば」に優るものはない!との告白である。「神のことば」は、生ける神がその口から発して下さった「おしえ」であり、私に親しく語り掛けて下さった「ことば」、だから、私には何物にも替えがたい最高の宝です、と言い切っている。同じことを後の段落では、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」と言い、(103節)また「私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します」と言い表わしている。(127節)

 ここまで言い切る心境はどのようなものなのか、よく考えるよう迫られる。もし私たちが同じことを言うとすれば、どれだけ本気なのかと問い質されるのではないだろうか。本気なのか? あるいは本心からそう思っているのか? もしや建前でそう言っているだけではないのか・・・と、心の奥底が問われる。私たちは、一体何に幸せを見出しているのか、何をもって幸い、幸福としているのか、大いに問われるのである。やがて消えて行くもの、この世の一時的なこと、必ず失われるものに、随分と心を奪われている事実を、素直に認めることから始めなければならない。そのためにすべきこと、それは何か。それはやはり、神の恵みを数えることであろう。どれ程多くの恵みをいただいていることかを知ることである。「主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。」(65節)

<結び> 苦難の日が思い出され、辛かった日々が心に浮かぶものの、よく振り返るならば、「あなたのしもべに良くしてくださいました」という事実、これが全てであることにこの人は気づいていた。それは「みことばのとおり」であった。「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)だから「みことば」は「幾千の金銀にまさるもの」なのである。私たちも、自分の生涯を丁寧に顧みること、振り返ること、そのことが大事である。神が「みことば」で約束された通りに、私に成して下さったことを数え、また日々、手を差し伸べて、恵みを注いで下さっていることを心に刻むならば、それが力となり、命となる。(※あれも主が良くして下さったこと、これも主が良くして下さったこと・・・と。ヘブル語「トーブ」:「良く」65節、「よい」66節、「しあわせ」71節、「まさる」72節、「いつくしみ深くある」68節)

 今日の私たちにとっては、神の御子イエス・キリストが救い主として、私たちを招いて下さっていることが、何よりの感謝である。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と語られた方が、十字架で死なれ、その死は「身代わりの死」であると告げておられた。そして、神の御子を信じる者は「永遠のいのち」を持つと約束された。その約束の「みことば」の一つ一つは、正しく「幾千の金銀にまさるもの」である。日々に注がれる恵みを数え、また約束の「みことば」を覚えて、心から、私は「幾千の金銀にまさる」宝を持っていますと告白できるよう祈りたい。(ルカ19:10、マタイ20:28、ヨハネ10:11、6:54、11:25、14:6、20:27等々)