礼拝説教要旨(2010.03.07)
急いで、ためらわずに
(詩篇 119:57〜64)

 ヘブル語アルファベットの各文字を先頭に読み込む仕方で、その韻を踏むように歌い進むこの詩篇は、全部で22の段落で成り立っている。その三分の一が過ぎ、第八の段落へと進む。「神のみことば」、「これこそ悩みのときの私の慰め」、「あなたのおきては、私の旅の家では、私の歌となりました」等の告白に続けて、「主は私の受ける分です。私は、あなたのことばを守ると申しました」と歌う。この段落の冒頭は、生きて働かれる神、主がおられること、それが私の幸いです、全てですとの断言である。(57節)主がおられるなら、他には何も望まない、私は「あなたのことばを守る」のみ・・・とばかり。

1、心の思いが高揚する時、人は後先を余り考えず、できもしないことを公言することがある。この詩篇記者は、果たしてそのような曖昧さをもって語ったのだろうか。「私は心を尽くして、あなたに請い求めます。どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください。」(58節)彼は、自分の力でみことばを守れるとは思っていなかった。主のあわれみを求めたのは、主の助けが必要と知っていたからである。これこそ、神に全幅の信頼を寄せる者の姿である。自分の弱さと愚かさ、そして欠けを悟って神に頼り、心を尽くして、神のあわれみを請い求める者に、神は親しく手を差し伸べて下さるのである。

 彼は「自分の道を顧みる」ことを怠らなかった。「主は私の受ける分です」と言ったからこそ、自分の生き方を、物の考え方や人前での振る舞いの全てを顧みることの大切さに気づいたのである。「あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。」(59節)神の教えに向かないなら、容易に道を逸れるのが人間である。だから、いつも心を神に向かわせ、その「さとしのほう」へ、自分の足を向けることが必要であった。それ程に自分は脆いもの、弱いものとの認識があったのである。私たちは、自分をどのように認識しているか、そのことが問われる。自らを顧み、神の教えとさとしに自分の足を向けること、そのことを、いつも神に請い求めているだろうか。「私をあわれんでください」と。

2、この詩篇記者は、更に自分の道を顧みて、主の道に叶わないと気づくなら、「私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」と、ためらうことなく、仰せの道に立ち返ることを心掛けていた。(60節)悪者に唆され、悔い改めを遅らせられ、罪の誘惑の中に閉じ込められることも、度々あったのであろう。その戦いは激しかったに違いない。けれども、その時、「私は、あなたのみおしえを忘れませんでした」と、「みおしえ」を思い出して、誘惑に打ち勝っていたのである。(61節)カギは、「急いで、ためらわずに」という態度にあった。「神のみことば」に従うのに肝心なのは、「急いで、ためらわずに」という「明確さ」にある。

 「みことば」が教え示す道は、ほとんどの場合に「単純」で「明解」である。自分の罪を悔い改め、神に立ち返るのは、迷いようがない位に単純なことである。心の中であれこれと考え過ぎて、次に進めなくなることが多い。のろのろと重い心を引きずっていると、やがて神を忘れる日常に引き戻される。罪に誘う悪の力は、人が想像する以上に強力である。それ故に神に向かうには、心で思った時こそ、一歩進むべき時、「急いで、ためらわずに」がカギである。この記者のためらいのなさは、「真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します」との告白に表れている。(62節)先に「私は、夜には、あなたの御名を思い出し」と言ったように、夜、一人神に向かって祈り、感謝し賛美をささげる時、恵みを数えて感謝に溢れるのであった。明日に延ばすことなく、神の御業への感謝は、真夜中であっても、目を覚まし、起きて感謝をささげること、それ程に神と親しく歩むことを私たちも許されている。

3、ところで、この段落の冒頭で「主は私の受ける分です」と、主が共におられるなら、私はそれ以上何を望むことがあろうか、との思いを披瀝していた。けれども彼は、自分さえ良ければ・・・という思いではなかった。「私は、あなたを恐れるすべての者と、あなたの戒めを守る者とのともがらです」と、神を恐れ、神の戒めを守る者とは、神の民としての親しい交わりの中にあることを喜んでいる。(63節)主にある仲間がいる、兄弟姉妹がいる、主を喜びとする民が、そこにも、あそこにも、いや、今気づかない所にもいるとの確かな喜びである。苦しみの時、今目の前に、頼れる人が一人もいなくても、神はご自分の民を必ず備えておられる。そんな思いも読み取れるのである。

 神を仰ぎ見る時、また同時に周りを見渡し、神の民の繋がり、交わりの広がりを信じることが導かれる。その交わりを喜ぶ者、その交わりを経験して力をいただく者は、いよいよ霊の目が開かれ、「主よ。地はあなたの恵みに満ちています。あなたのおきてを私に教えてください」と祈る者となる。(64節)この全地に遍く、神の恵みが満ち溢れていると知る者は誰であろうか。神の恵みの豊かさ、それは人知を遥かに超えている。私たち人間は、そのほんの一部を知るのみである。満ち満ちている恵みに触れ、天地を造られた神を誉め、その神の「おきて」を、いつも心に留めさせて下さいと祈ること、そのようにして生きることを導かれる人こそ、本当に幸いな人である。

<結び> 地に満ちている神の恵みは、この世の富や宝によって心を満たしている者にとっては、なかなか気づけないものである。それ程に人の心は、神以外のものに向かい易い。主イエスは、「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に収めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」と語られた。(マタイ 6:26)自らの心を顧みて、神を信じ、神に頼る信仰に立つこと、恵みに触れて心を動かされ、「神のことば」に一層の信頼を寄せる者となるよう祈りたい。神の前に悔い改めることがあるなら、「急いで、ためらわずに」立ち返ることを、また今一度、神に従う信仰を新たにされるためにも、「急いで、ためらわずに」神の教えに立つことを導かれたい。そして、神の恵みに感謝する日を歩ませていただきたい!