第四段落で、この詩篇の記者は、悲しみのために涙を流す日のあることを告白していた。そして、主の助けと守りを待ち望んでいた。続く第五、第六の段落では、心の底から神を慕う思いを歌った。「私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はそれを喜んでいますから。」(35節)「私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。」(47節)彼は自分の弱さを知っていたのである。油断すると不正に走り、むなしいものに心を奪われる自分、人のそしりに心が揺れる自分がいた。だから神を待ち望み、「神のことば」に依り頼んでいた。けれども、それは神が手を差し伸べておられたので、そのようにできたことであった。
1、「どうか、あなたのしもべへのみことばを 思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。」(49節)人が自分の弱さや愚かさに気づく時、どうして欲しいと願うものだろうか。困難があり、悩みや痛みに耐え難くなった時にどうするのか・・・。すぐにでも、弱さは強さに、愚かさは賢さに変えて欲しい、そして、目の前の困難が去り、悩みも痛みもたちまちの内に消えて欲しいと願う。神がいるなら今ここで奇蹟を見せてもらいたいと、そのように思う。けれども、彼が願ったのは「みことば」であった。私にかけて下さった「みことば」を「思い出してください」と願い、自分自身がその「みことば」を思い出そうとしたのである。
神の約束の「みことば」、それは「わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである」との、アブラハムと結ばれた契約のことばなどを思い出していたのであろう。(創世記17:7)神はモーセにも、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」と約束しておられた。(出エジプト6:7)一貫して神は、「わたしはあなたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と、ご自分の民に約束を繰り返された。(レビ記26:12)その上で、「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」とヨシュアにも約束し、神の民の全てに約束された。神を信じる人は、その約束のことばを、いつどこにいても、信じて待ち望むことが導かれるのである。
2、「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。高ぶる者どもは、ひどく私をあざけりました。しかし私は、あなたのみおしえからそれませんでした。」(50〜51節)この人は、高ぶる者たちによって取り囲まれ、激しい嘲りに打ちのめされそうになったこと、しばしばであった。そのような悩みの時こそ、「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」との約束に慰めと力を得ていた。その「みことば」を思い出す時、苦しみに耐える力が湧き、「みおしえ」からそれることはなかった。「主よ。私は、あなたのとこしえからの定めを思い出し、慰めを得ました。」(52節)神がおられ、その神が見守って下さるとの確かな約束、これに優る慰めはない。
それにしても、私たち人間は困った時や、悩み苦しむ時、目の前の状況がすぐにでも変ることを望むものである。神を信じる者が神に向かって、「主よ。・・・急いで私を助けてください」と叫ぶのは当然である。(詩篇22:19、38:22、40:13、70:1等) けれども、今直ぐの助けがない時、それでも神を待ち望むのはとても辛いことになる。詩篇の記者は、そのような時でも尚、神を待ち望んだものと思われる。人々は彼の信仰を嘲笑い、助けのない彼を痛めつけさえしたのであろう。それで「あなたのみおしえを捨てる悪者どものために、激しい怒りが私を捕らえます。あなたのおきては、私の旅の家では、私の歌となりました」と言う。(53〜54節)彼の心は怒りに燃え上がり、それを治めるのは難しくさえあった。けれども、みことばが空しくされたことへの怒りは、神が引き受けて下さるので、その怒りは神が鎮めて下さるのであった。
3、「主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し、また、あなたのみおしえをを守っています。」(55節)彼は自分の人生を振り返ると、それは長い旅のようであり、その「旅の家」で涙したことを思い出さないではいられなかった。しかし、同時に「神のみことば」が慰めとなり、「歌」となって口から溢れることがあったのである。夜一人になって一日を思う時、神が共にいます幸いは、言葉に尽くし難い慰めとなっていた。神の教えを歌い、いよいよその教えに従いたいと、励ましを受けていたのである。昼の間、世の喧騒に追われ、心騒がせることがどんなに多くても、夜の静けさの中では、神の御名に思いをはせ、神の約束と教えに聞き従う思いを新たにされるのであった。
「これこそ、私のものです。私が戒めを守っているからです。」(56節)神がおられ、私たち人間と共におられると約束し、そして、私たち人間の歩む道を「みことば」によって照らして下さること、「これこそ、私のものです。」彼は、神の戒めを守って生きる限り、確かな人生を生きられると感謝に溢れた。世の多くの人々は、神なしで生きようとするので、行く先の分らない旅をするごとく、また舵のない船、あっても壊れた舵しかない船を操るごとく、全く不安定な日々を生きるばかりである。その日その日の運勢を頼るしかない日々、それはどんなに恐ろしいものか。また、人の地位を当てにし、富を頼ったとしても、人も富みもどんなに脆いものであるか、神は聖書を通し、また歴史の事実により、多くの実例をもって、私たちに教えてくれている。
<結び> 神を信じる者の生き方について、この地上では「旅人であり、寄留者」であることを、聖書は繰り返し教えている。人生は旅の如しと。けれども、その旅は行く先の分らないものではなく、やがて天の故郷に帰る旅である。時に苦しく辛いことがあっても、神が共におられるとの約束は、大きな慰めを与えてくれる。どこにいても、決して見放さず、見捨てないと約束して下さった神、この神が私を支え導いて下さると信じることができるとは・・・! 私たちは、これ程の大きな慰めを与えられている。気づかずに通り過ぎていることはないか。
主イエスも約束を繰り返された。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1) 「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)この約束を信じて、使徒パウロは「私たちの国籍は天にあります」と語り、聖徒たちに祈りを勧めている。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ3:20、4:6〜7)「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします」と、私たちも心を合わせることが導かれるのである。
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