「主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。そうすれば、私はそれを終りまで守ります。私に悟りを与えてください・・・」との祈りで始まった第五の段落は、「神のみことば」を心から求める思い、また「みことば」によって「私を生かしてください」との切実な祈りに貫かれていた。「私はその道を喜んでいますから」と言い切り、「私は、あなたの戒めを慕っています。・・・」と、生ける真の神に従う道こそ私の幸い!と告白していた。その真実な思いは、更に次の段落へと歌い継がれている。
1、「主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。こうして、私をそしる者に対して、私に答えさせてください。私はあなたのことばに信頼していますから。」(41〜42節)詩篇記者は、「神のことば」の確かさを知る人であった。けれども、もう知っていると安心することなく、一層「私に教えてください」「私に悟りを与えてくだい」と祈っていた。その同じ思いで、「あなたの恵み」と「あなたの救い」を求めていた。既に「恵み」も「救い」も与えられていたが、尚も「私にもたらされますように」と願った。それは、「神のことば」とともに「神の恵みと救い」が、私には無くてならぬ大切なものです、との心からの叫びであった。
彼は、自らの内面の弱さや愚かさを知る者として「みことば」を求め、外からのそしりや惑わしにも揺り動かされる自分を知っていた。だからこそ神の助けを呼び求めた。何としても神の助けと導きが、私には必要であると心から悟っていた。「救い」を与えて下さるのは神ご自身であり、その神が数々の「恵み」を注いで下さるので、神の民はこの地上の日々を楽しみ、感謝をもって生きることができるのである。彼は、ただ苦しみの中で救って下さい、恵みを与えて下さいと願っていたのではなく、神がどれ程多くの恵みを注いで下さっているのか、それに私に気づかせて下さい、また、確かな救いを一層鮮やかに見させて下さいと願っていた。そのような思い、また祈りを私たちもするようにと教えられる。この世にある日々に、悩みや苦しみはつきもので、それに耐えるのに、神を仰ぎ、神のことばに頼る以外に助けはないからである。
2、祈りは、「私の口から、真理のみことばを 取り去ってしまわないでください。私は、あなたのさばきを待ち望んでいますから」と続く。(43節)外からのそしりを受ける時、私たち人間はどのような反応をするものなのか。時々、「クリスチャンなのにどうして・・・」「教会も人の集まり・・・」と言われて、返答に窮することがある。「クリスチャンなのにそんなことしていいのか」と問い詰められると、自分の不完全さを思い知らされるからである。しかし、完全な方は神お一人である。確かなのは「神のことば」だけであって、自分がそしられたとしても、「真理のことば」を見失わないこと、それが大事なことである。「こうして私は、あなたのみおしえを いつも、とこしえまでも、守りましょう。そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。」(44〜45節)私たち人間は不完全、また不真実であっても、神は完全で真実な方である。この神の教えに立つこと、それが神の民の確かな歩みとなるのである。
たとえ不完全な者であっても、「神のことばに」よって立つなら、この世の王たちの前であっても恐れることはない。神が共におられるから。主イエスは弟子たちに言われた。「何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。・・・」聖霊が弟子たちの内にあって話されるからと。(マタイ10:19〜20)完全なる神がおられることの確かさ、その力は計り知れない。人間の不完全さは、神の完全さによって覆われ、克服される。弱さの中にあっても、「私はまた、あなたのさとしを王たちの前で述べ、しかも私は恥を見ることはないでしょう」と言い切ることができる。(46節)神を信頼して人を恐れず、御言葉があるからこそ、自由に「広やか」に歩むことができるとは、何と幸いなことであろう。
3、こうしてこの段落も、「私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めます」と、喜びを歌って締めくくられる。短い言葉の中に「神のことば」は「私の愛するもの」であり、それは「私の愛するあなたの仰せ」であり、その「おきて」に私の心の「思いを潜めます」と、神への愛が私を動かしていることを言い表わしている。神を慕い求め、「神のことば」を待ち望んだ彼は、「神のことば」は「私の愛するものです」と言い、その教えに聞き従うことによって、神への愛を明らかにする歩みが導かれていた。(47〜48節)
主イエスは弟子たちに教えておられた。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」そして、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。・・・わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」(ヨハネ13:34、14:23〜24)神を愛するとは、「神のことば」を守ること、その教えに聞き従うこと。知っているに止まらず、よく読んでいるとか、よく研究しているというのでもなく、神を愛するからこそ、その教えを喜び、その教えの通りに生きて行こうとすること、その思いや態度がこの上もなく尊いものなのである。(※ヨハネ第一4:4〜12)
<結び> 主イエスは、大切な第一の戒めは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力をつくして、あなたの神である主を愛せよ」であると言われた。そして第二は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と。(マタイ22:37〜40)神を愛し、隣人を愛すること、これを神は求めておられる。神の戒めはここに行き着くのである。そして、神を愛するなら、神の戒めを愛し、その戒めを行うこと、それが愛の証しとなる。詩篇の記者は、「私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてにに思いを潜めましょう」と告白した。そこまで神を愛し、その教えを愛したのである。
「神のことば」を「私の愛するもの」と告白する信仰、そこに私たちも到達させていただきたい。聖書が私には必要であると、当然のように思っているに違いない。しかし、この聖書なしに生きて行けるとは思わないまでも、果たして「私の愛するもの」という程に大切にしているかと問われると、ぼんやりしている自分に気づかされる。神を愛する愛さえも、ぬるま湯につかっているようではないかと。今一度、自らを省みて、救い主イエス・キリストを遣わして下さった神を愛する愛に生きること、生かしていただくことをはっきりと願い求めようではないか。また「主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように」と心から祈って、確かな救いと、豊かな恵みに満たされて生きることを導かれたい!! |
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