「私のたましいは、ちりに打ち伏しています」と嘆き、また「私のたましいは悲しみのために涙を流しています」と、悲嘆のどん底にあっても、この詩篇の記者は、「あなたのみことばのとおりに 私を生かしてください」「みことばのとおりに私を堅くささえてください」と祈っていた。(25、28節)神が共にあって私を支え、また生かして下さること、それが私にとっての幸いとの確信は、決して揺るがなかった。そして「私はあなたの仰せの道を走ります。・・・」と、一層「神のことば」を慕う者となっていた。(32節)こうして次の段落は、光を見出したことにより、心新たに神の導きを求める祈りとなる。
1、「主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。そうすれば、私はそれを終りまで守りましょう。」(33節)私を生かして下さるのは「神のことば」であり、神の教えであることは、言うまでもないと確信している。神の約束を信ずればこそ、この世の荒波も恐れることはなかった。けれども、もう知っている、分っていると有頂天になることなく、一層「あなたのおきての道を私に教えてください」と願い、「私に悟りを与えてくだい。私はあなたのみおしえを守り、心を尽くしてそれを守ります」と心を込めて祈っている。そして「私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから」と。(34〜35節)※文語訳「われその道をたのしめばなり」共同訳「わたしはその道を愛しています。」
苦難を経て、もう大丈夫、もう何があっても平気・・・と強がるのではなく、私にはなお一層神の「おきて」が必要であること、しかも「おきての道」と言うように、神の教えを知っているだけでなく、その教えに聞き従って生きることを教えて下さい、悟らせて下さいと願うのである。私たち人間が知らずして陥るワナとして、神の戒めを言葉としては知っていても、その戒めに従って生きること、行うことは別物とすることがある。主イエスがパリサイ人や律法学者たちを鋭く責めたのは、そのような過ちに陥っていたからである。私たちも同じ責めを負わなければならないのは言うまでもない。しかし、この詩篇の記者は、自分をよく知る人であった。主に導かれることがなければ、とっくに道を誤っている自分を知っていた。そして私には主の教えの道が喜びであるからこそ、私にもっともっと教えて下さいと願うのである。
2、自分の弱さを知る彼は、「私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。・・・」と祈りを続けた。(36〜38節)神のおきての道を行く時、彼の心に喜びが溢れたのは確かである。けれども同時に、この世にある限り世の惑わしが押し迫り、富の快楽に誘われる自分を認めていた。「不正な利得に傾かないように」、また「むなしいものを見ないように」と祈りをささげたとしても、人間の力では決して成し得ないことを知っていた。神が働いて下さり、導いて下さることがなければ、私たち人間は罪の惑わしから、決して自由には成り得ない。神に向かって「私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください・・・」と祈るこの祈りは、私たちにも必要な大切な祈りなのである。
自分の内面の弱さを知る者は、外からの攻撃にも自分では立ち行けないことを認める者である。「私が恐れているそしりを取り去ってください。あなたのさばきはすぐれて良いからです。」(39節)彼は自分の弱さを決して隠すことなく、祈りによって神の助けと導きを待ち望んでいたのである。外からのそしりに、今襲われていたのか、今はなくても、その恐れの中にあった。自分の周りに敵対する者がいなくなることはなく、「そしりを取り去ってください」と願っても、実際すぐに「そしり」がなくなることはなかった。この世で生きる限り、確かな拠り所は神ご自身であり、神が必ず良い結果をもたらしてくれるとの信仰が、いつも試されていたのである。
3、こうしてこの段落の最後は、「このとおり、私は、あなたの戒めを慕っています。どうかあなたの義によって、私を生かしてください」と締めくくられる。(40節)「私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから」と祈り、歌ったその思いは、40節の「あなたの戒めを慕っています」に行き着き、「どうかあなたの義によって、私を生かしてください」に繋がっている。神の戒めを「慕う」心、そして神の「義」によって「私を生かしてください」と願う祈り、それは神によって生かされる者が、日々心に留めるべきことである。私たちもまたこの祈りをささげるようにと教えられる。(※共同訳「御覧ください わたしはあなたの命令を望み続けています。恵みの御業によって 命を得させてください。」)
神の民は神によって生かされていること、神によって義とされ、生きることをよしとされていること、その事実を知ることが神の民の幸いである。この段落には、神が共におられることを喜び、感謝をもって、一層の服従を言い表わそうとしてする思いが溢れている。神のおきてに従う道を歩むにあたり、「私はその道を喜んでいますから」と告白する。彼は「主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。そうすれば、私はそれを終りまで守りましょう」と祈ったが、主が一つ一つ、語り掛けて下さることを聞き逃すまいと、常に心を開いていた。喜びをもって心を主に向け、主が語って下さる教えに耳を傾けること、「その道を喜ぶ」その姿、その生き方、それを主は喜んで下さるのである。
<結び> 翻って私たちの信仰の歩みは、どのようなものであろうか。「私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。」このように、心から喜びを言い表わしているだろうか。私たちは時に、信仰の歩みは、非常に狭く、行き詰まり、もがいたり、歩み難いものと思うことはないか。難しい! 大変だ!! としかめっ面をしていることはないだろうか。この世でクリスチャンとして生きるのは、思ったより大変と。「おきての道」「仰せの道」「その道」「あなたの道」・・・何か自由のない、難しい道と思えてしまうのである。
確かに「おきての道」とは「おきてに従う道」のこと、「仰せの道」は「仰せに従う道」のことである。けれども、「おきて」に従ってどのように生きるのか、どのように振る舞うのか、そこには、主の教えに従う生き方の多様性や、応用の広がりがあることを見落としてはならない。「おきて」に縛られて生きるのではなく、「その道を喜ぶ」、多彩な生き方のあることが暗示されている。私たちは、神の栄光を顕わし、かつ永遠に神を喜ぶよう教えられている。神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じる者として、この地上を生かされるのは、神を喜び、自らの日々を感謝と喜びをもって生きるようにと、神によって送り出されていることを、もう一度、しっかりと心に留めさせていただきたい。感謝をもって、「私はその道を喜んでいますから」と、私たちも心から言えるように!!
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