詩篇の記者は、自らの生涯を思い返しつつ、「私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください」と歌っていた。それはこの地上の日々を生きる限り、変ることのない彼の祈りであった。「神のみことば」があるなら、「たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合っても」、決して恐れることなく、ひるむこともなく、「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です」と、心から告白することができたからである。
1、ところが第四の段落に進むや、いきなり「私のたましいは、ちりに打ち伏しています」と一変する。神の守りと導きは不変である。人が神を見失うことがあっても、神がご自身の民を見捨てることはない。にも拘わらず、「私のたましいは、ちりに打ち伏しています」と追いつめられていた。彼が遭遇した世の荒波、激しい嵐のような経験は容易ならぬものであった。「わが魂はちりについています。」(口語訳)じっと身を潜めて、嵐の過ぎるのを待つ他に成すすべがなかった。けれども、彼は祈ることを忘れなかった。「あなたのみことばのとおりに 私を生かしてください。」(25節)※口語訳「み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。」※共同訳「御言葉によって、命を得させてください。」
人は苦しみに遭って、何を思い、どのように考えるものなのか。神を信じない多くの人が、苦しみに遭って、神なんているものか・・・と神を呪う。神を信じる人であっても、予想もしなかった苦難に打ちのめされると、神を捨てるとさえ叫ぶことがある。正しく生きようとして嘲られ、真実であろうとして、この世で不利益を味わうことを繰り返すと、最早立ち行けないと自信を失うのである。残念ながら、多くの人が若い日に神を信じ、神の教えに聞き従って歩み始めていながら、やがて神を棄て、自分の力だけに頼る!と去って行った事実が、旧約聖書の時代にもあったのに違いない。(※日本の宣教の歴史において、何度かそのようなことがあったと言われている。)けれども、彼は神を呼んだ。「あなたのみことばのとおりに 私を生かしてください」と。
2、彼は、モーセを始め聖徒たちが、「神のことば」によって励まされ、立たされ、生かされていた事実を思い返していた。出エジプトの後、民を導いたモーセは、何度となく困難に立ち止まり、苦悩した時、必ず神に祈り、神に訴えていた。口の重さを嘆いたモーセに、「さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう」と言われた神がおられること、これが力の源だったからである。(出エジプト3:12)行き詰まった時こそ、神が共におられるなら、今こそ私を支えて下さいと祈った。(34:9)モーセの後継者となったヨシュアも、「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」との、確かな約束を告げられた。(ヨシュア1:9)詩篇の記者は、その約束は自分にも与えられていると信じたのである。
それ故に、嘆きや苦しみの中でも、道を見失うことがなかった。「私は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに 思いを潜めることができるようにしてください。」(26〜27節)苦しみに遭う時、私たちは、自分ではなく相手の人に気づいてもらいたい、変ってもらいたいと願うことが多い。聖書の教えに聞き従うべきは「私」であるのに、「あの人」が知ってくれたら、分ってくれたら・・・と祈りさえする。しかし、「私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください」と、この詩篇は只々自分を見つめ、私には御言葉が必要ですと祈るのである。(28節)
3、周りの環境が変ることや、周りの人々が心を入れ替えてくれることを願うのではなく、あくまでも、「私から偽りの道を取り除いてください。あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください。私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました」(29〜30節)と祈ることは、決して容易いことではない。「私は、あなたのさとしを堅く守ります。主よ。どうか私をはずかしめないでください。」(31節)この祈りには、どんなに世間の風が冷たく、身近な人の励ましさえ空しく響いたとしても、それでも、生きておられる真の神に従いたい、神の御言葉が私の頼りですとの思いが溢れている。彼は悲しみに沈み、涙に暮れるとも、神の約束の言葉、「わたしは、あなたとともにいる」を頼りとし、神の教えに従って生きることを見失わなかった。
私たちは、信仰の歩みを感情的なことに重きをおいて捉える傾向がある。喜びや感謝、また祈りも感情に影響され、より確かに神に向かうには、何かしら高揚する心が大切と思い易い。けれども、この段落では、悲しみに沈む時、涙に暮れる時、そのような時こそ、意志をもって「私は真実の道を選び取り」と言い、「私は、あなたのさとしを堅く守ります」とも言い切り、そして「私はあなたの仰せの道を走ります」と決意を述べている。そのように言い得るのは、「あなたが、私の心を広くしてくださるからです」と理由も述べ、目の前のことにばかり汲々としていた心が、広く神の御業の溢れた世界を見させられ、飛び立たせられる思いへと導かれていると告白する。(32節)心沈む時、また涙の時こそ、約束の言葉を思い返し、神の御業に目を留め、神が私を支えて下さることを願うこと、自らの意志をもって祈る明確な信仰が力となるのである。
<結び> 私たちの信仰は、果たしてどのようであろうか。「私のたましいは、ちりに打ち伏しています」、また「私のたましいは悲しみのために涙を流しています」という悲嘆の中から、「私はあなたの仰せの道を走ります」と言うまでに、この記者の心は迷いから解き放たれている。周りの環境を攻めることなく、周りの人々のことを嘆くこともせず、彼はひたすら「あなたのみことばのとおりに 私を生かしてください」「みことばのとおりに私を堅くささえてください」「あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください」と祈った。そして「私は、あなたのさとしを堅く守ります」と祈り、「私はあなたの仰せの道を走ります」と、心を決めるまでに導かれていた。私たちの日々の歩みのためにも、同じ祈りが大きな力となる。神が共におられるとの約束は、私たちをも支えてくれる約束である。神が共におられると信じる者は、今この時代にあっても、揺るがない信仰によって支えられる。この幸いを信じて歩ませていただきたい。「あなたの仰せの道を走ります」と言えるなら、もっと幸いである!!
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