礼拝説教要旨(2010.01.17)
私は地では旅人です
(詩篇 119:17〜24)

 第二の段落で、「どのようにして若い人は自分の道を きよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです」と歌った記者は、「神のことば」を「あなたのさとしの道」と言い、「どんな宝よりも、楽しんでいます」と告白した。更に、「私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません」と祈った。御言葉によって生きること、これが神の民の幸いだからである。

1、詩篇の記者は、もう既に壮年に達していたと思われるが、幼い頃からの歩みを、また夢や希望に溢れた若い日のことを思いつつ、神を信じて生きる者にとって、何が大事か、何を一番大切として生きて来たかを、更に思い巡らしていた。「あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください。」(17節)御言葉によって生きること、神の教えに聞き従って歩むこと、それは何よりも大切としても、心意気だけではできるなかった。自分の努力次第とは行かなかった。神ご自身の支えが必要であった。彼はそのことを悟って、心を込めて祈ったのである。「私を生かしてください。そしてあなたのことばを守らせてください」と。

 彼は、生きることは御言葉を守ることと告白していた。私が生きるのは御言葉を守るためであると、神の教えに従うことを祈り求めたのである。更にその祈りは、「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに 目を留めるようにしてください」(18節)と、尚一層、自分の内の足りなさを自覚することに導かれる。どんな宝よりも尊いものである御言葉を、余すところなく見させてくださいと、心から願った。そこには、神が目を開いて下さることがなければ、見過ごしてしまうことがどれ程多いかを悟り、まだ知らない教えの奇しさを何としても知りたいと願う、切なる思いが込められていた。それは心を低くする者だけが祈れる、そんな祈りである。

2、詩篇の記者は、自分がこの地上では「旅人」であることを実感していた。(19節)何かに頼ることがなければ、揺れ動く自分を知っていた。「私は地では旅人です」と言い得る人は、自分がこの世で何かを成し遂げたとは決して思わない人である。神の教えや戒めがないなら、たちまち道を誤る自分を知っている。だから、「あなたの仰せを私に隠さないでください」と祈らずにはおれなかったのである。後に「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(105節)と言うように、御言葉は人の歩みを導くもの、人生になくてならぬ指針であった。「私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、のろわるべき者をお叱りになります」と祈りは続く。(20〜21節)彼の心は砕かれており、御言葉にこそ、依り頼もうとする熱い思いが満ちている。

 この地上の生涯をどのようなものと理解するのか、それによって人の生き方は大きく左右される。この地上こそ自分の活躍の場であり、自分の力を余すことなく発揮できる所と考えるのか・・・。確かにこの世の多くの人々は、自分の知恵を誇り、力を頼み、次々と大きなことを成し遂げている。神を恐れる者が「私は地では旅人です」と、心を低くして世に出てみると、そこは激しい荒波の押し寄せる凄まじい所である。この世で力ある者は、決して心を低くすることなく、正しく生きようとする者を嘲笑いさえする。「どうか、私から、そしりとさげすみとを取り去ってください。私はあなたのさとしを守っているからです」(22節)と、祈らずにおれない現実に直面する。御言葉を守って生きようとする者は、地では旅人であることを見失うことなく、神の助けと守りを祈り求めることによって、確かな歩みが導かれるのである。

3、そうする時、やがて神のみ手の守りの中で、どれだけ支えられ、守られているかを知ることになる。「たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合っても あなたのしもべは あなたのおきてに思いを潜めます。」(23節)神に頼る者は、世にあって、もはや恐れたり怯えたりする者はなきに等しく、「君主たち」も恐れるに足りない者と気づかされる。彼らの権勢がどれ程であったとしても、「あなたのしもべは あなたのおきてに思いを潜めます」と言い切ることができる。「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です」と、最早迷うことはない。(24節)この世の知恵と力に押し切られそうになることがあっても、御言葉に踏み止まる者、そうする者を神が支えて下さる。その神は全知にして全能なる方だからである。

 「あなたのおきてに思いを潜めます。」「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。」 15節でも、神に頼む者は「あなたの戒めに思いを潜め」と語り、神の教えを心に思い巡らせることを願っている。心浮かれることなく、心の内の深くに御言葉を宿らせ、それによって自分の生き方が整えられ、導かれること、これが生きる力の源となることを願うのである。神の御言葉が「私の喜び、私の相談相手です」と言えるのは、この記者が「私は地では旅人です」と告白するからである。彼は決して行く先の分らない旅をしていたのではなく、帰るべき所、天の故郷を信じたのである。この地上でどれだけ苦しみ、痛み、涙することがあっても、神がやがて必ず迎えてくれる天の都があることを。だから「地では旅人」であることをよしとしたのであった。
(※ヘブル11:13〜16、ヨハネ14:1、2)

<結び> 私たちは、この詩篇の記者と同じように、「私は地では旅人です」と告白して生きているだろうか。この段落の祈りにおいても、私たち人間が神の前に心を低くし、謙虚な思いで生きているかどうか、そのことが問われているのは明らかである。「神のことば」を、自分の役に立つからとか、自分が生きるための糧とするとか、紙一重で、それを利用しようとする過ちに陥ることがある。どこまでも私たち人間は、神に聞き従うべき存在であり、神の教えを守って生きるべき存在である。何をするにも「神の栄光のために」と教えられる時、それは「神のことば」を生きること、御言葉が教える通りに生きることを指し示している。だからこそ、「私の目を開いてください」と願い、「あなたの仰せを私に隠さないでください」と祈るのである。「旅人」にとっての「喜び」、また「相談相手」である御言葉として、聖書の教えに、一層聞き従うことを導かれたいものである。