神によって造られた人間にとっての最高の幸せ、それは神を恐れること、神の御言葉に聞き従って、その教えを生きることである。「主の道を歩む」人、その人こそ真に幸いな人である。詩篇119篇は、その教えを全篇を通して説いている。第二の段落は、「どのようにして若い人は自分の道を きよく保てるでしょうか」と問い掛け、「あなたのことばに従ってそれを守ることです」と答える。(8節)詩篇の記者は自分の人生を振り返りつつ、人が正しく生きること、また清くあることの難しさを思い返していたに違いなかった。
1、幸せを求め、また人生の様々な可能性に夢を託せる「若さ」は、いつの時代も、どこの国でも格別のものである。「若さ」こそ「力」とばかり、勢いで人生を切り開きさえできる。けれども、その「若さ」が、実は「危うさ」や未熟ゆえの「愚かさ」と紙一重であることは、ずっと後になって思い知ることである。「若い人」には、夢と希望が溢れている反面、罪や過ちに陥る落し穴がそここにあって、自分の生き方を定めるのは容易ならざることである。記者は自分の歩みを思い返しつつ、「神のことば」に従うことがなかったならば、どれだけ危ういものであったかと実感するのである。
この世には、人の心を神のきよさとは反対に向かわせる誘惑が満ちている。自分の知恵と力に頼って生きることが賞賛され、富を蓄え、地位と名誉を得ることが最高の幸せと刷り込まれている。それ程でなくても、日々の生活が何不自由なく過ごせるならば・・・とも思っている。しかし、若い日にこそ、知識の不足を悟り、経験の足りなさを自覚して、他の人の教えに耳を傾ける賢さが必要である。それに増して、神に頼り、神の御言葉に聞き従おうとすることこそ、無くてならぬことである。神に従おうとするその心がある時、人の忠告にも耳を傾けることができる。欠けを知り、弱さを知って、その上で神の「きよさ」に近づく人は、神の「ことば」に従って生きる人に他ならず、若い日に神のことばを疎かにする人は、一生そのようにしか生きられない人となる。
2、この詩篇の記者は、自分が歩んだ道を思い返していたのであろう。若い日の自分がどのような思いで生きてきたか、またどんな祈りをささげて今に至っているかなどを。「私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。」すなわち、心を尽くして主を求めない限り、きよく正しく歩むことは不可能であった。「どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください」と祈らずに、ここまで生きては来れなかったのである。また「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました」と告白するように、神の御言葉なしに、どれだけ道を踏みはずし易い自分であるかを自覚していた。そして「主よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください」との賛美と祈りがあって、今があることを感謝するのである。
感謝する心は、ともすると恵みを一人自分の内に留めて、それでよしとする落し穴にも陥ることがある。けれども、この詩篇は、「私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます」と歌う。若い時から御言葉を喜びとして歩んだ記者は、御言葉を独り占めすることなく、「ことごとく語り告げます」と、主の教えの素晴らしさを、人々に告げ知らせます、確かな道を広めますと言い切る。それは、「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます」と、大きな喜びから出ていた。「どんな宝よりも、楽しんでいます」という告白には、御言葉に優る宝のないことが、心の底から叫ばれている。どんな時も、どんな宝よりも尊いもの、それは神のことばであり、聖書の教えであると私たちも、心からの告白が導かれるなら幸いである。
3、「どんな宝よりも」と、御言葉が教える「さとしの道」を楽しむものの、その楽しみは決して浮かれるものではなかった。神を信じる信仰が喜びであり楽しみならば、教会がする働きは明るく輝くべき・・・と、時に明るさや華やかさを追い求める誘惑に遭遇する。けれども、「私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます」との祈りに、私たちの目が開かれることが求められる。宝に浮かれることなく、その宝に「思いを潜める」こと、その教えに聞き従い、いよいよ心を低くさせられること、それが信仰の神髄であると。神のことばを心に思い巡らせ、どれだけ隔たっている自分を見つめることができるか、それによってのみ、神に依り頼む心が定まるとも、決まるとも言い得る。人は自分に絶望しない限り、神により頼むことはないからである。
第二段落の締めくくりは、「私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません」と、決意の告白である。神のことばを心に潜め、心に刻むことの大切さを見失っていることはないだろうか。聖書を大事にはしていても、中味を疎かにする過ちを犯すからである。聖書を持っていることで安心するのではなく、そこに記されている教えを心に蓄えること、神が私たち人間に求めておられることを知って、その戒めを行うこと、教えに喜んで聞き従うことが肝心である。天地の造り主である神がおられることを信じ、その神の前に罪を認めて悔い改めること、神を愛し、神に従い、隣人を愛して心から隣人に仕える者となること、それら全てが「神のことば」として、聖書を通して私たちに知らされているのである。それらの教えの一つ一つを「どんな宝よりも」尊いものとし、「私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません」と、私たちも告白させていただきたい。
<結び> 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と言われるように、「若い日」に神を恐れることを知る人は真に幸いである。(伝道者12:1)また、この詩篇が歌うように、「若い人」が御言葉に聞き従うことの尊さも測り知れない。しかし、これらの教えは、同時に全ての人に向かって、自分を何者としているか、自分をどのように捉えているかを問うている。自分が「若い人」に過ぎないこと、神の教えによらなければ立ち行かない存在であることを知っているか・・・と、問い掛けている。『私こそが、創造主を心から覚えられますように。また、私こそが、どのようにして自分の道をきよく保てるでしょうか。「あなたのことばに従ってそれを守ることです。」それ以外に私の拠って立つ所はありません。「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます」』と、心から告白することが導かれるだろうか。ただ聞くだけであったり、ただ読み過ごすことのないように。必ず自分の答えをもって、生きておられる神に対して応答することが導かれるように!!
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