礼拝説教要旨(2009.12.27)
真の王キリスト
(マタイ 2:1〜12)

 クリスマス礼拝から一週間後の主の日を迎えた。世の中の様子は一変して、正月を迎える年末となったが、私たちはなおクリスマスの出来事に心を留めて、救い主を信じる信仰を堅くされたい。巷で祝われるクリスマスは、残念ながらキリスト抜きのものであっても、私たちはキリストを信じるクリスマスを祝い、そして、キリストを信じる信仰を再確認されるためである。

1、先週は、「飼葉おけのみどりご」のもとに駆けつけた羊飼いたちの経験に目を留め、私たちも、確かにお生まれになった救い主キリストを信じるように励ましを受けた。羊飼いたちは、飼葉おけに寝ておられるみどりごを捜し当て、大きな喜びに包まれた。飼葉おけのみどりごは、確かに神が世に遣わして下さった方、救い主キリストであった。来る者を決して拒むことのない方、近づく者の心を暖かく満たす方、ご自分の民をその罪から救う方としてお生まれになった方であった。母マリヤは、一連の出来事を心に納め、思いを巡らしていたが、この先どのようなことが待ち受けているのか、心配も膨らんだに違いなかった。ルカ福音書は、八日後の宮でのことの他、その後はナザレに帰ったことを記し、「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった」と告げる。(ルカ2:22〜40)

 これに対してマタイ福音書は、「イエスが、ヘロデ王に時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムやって来て、こう言った」と記す。東方の博士たちが、ヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」と尋ねたのであった。ヘロデと言えば、権力闘争に明け暮れ、その王位を脅かす者は、肉親たりと容赦しない王と恐れられていた。博士たちは、「私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」と、その来訪の理由を告げていた。彼らは、特別な星を見たと告げているが、東方のバビロンやペルシャ地方には、旧約聖書の教えが届いており、特別な王の誕生を察知してやって来たのである。(1〜3節)

2、一見、おとぎ話のようであり、ただの物語・・・のようである。けれども、ルカが「皇帝アウグスト」や「クレニオ」を登場させ、また「ベツレヘム」という地名を記したのと同様、マタイは「ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき」と、イエスの誕生の時と場所を明言する。幼子イエスの誕生は、確かなこと、歴史上に足跡を残す出来事=事実=として起っていた。その誕生を巡って、時の王ヘロデは、博士たちの来訪に恐れ惑い、慌てふためいた。「ユダヤ人の王」の誕生は、彼の与り知らないことであって、事実とすれば断じて許せないこと、直ちに手を打たねば・・・という事態である。そして王の性格を知る民は、悪い予感を感じて恐れたのである。

 ヘロデ王は、博士たちの問い掛けをかなり正確に理解したので、民の指導者たちに、「キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」「王」とは「メシヤ・キリスト」のことと受け留め、メシヤに関する預言を調べさせた。博士たちが異国で察知したこと、それは「キリスト」に関することであり、彼らが言う「王」とは、一地方に留まる王ではなく、普遍性をもった王であり、特別な王と直感したのである。それでも自分の地位を脅かす王は許すことはできず、ベツレヘムが特定されるや、その王を抹殺するべく博士たちを利用しようとした。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」怯えている様子は隠し、余裕を見せている。けれども、半信半疑で、本気にはしていないことも見てとれる。(4〜8節)

3、ベツレヘムへと向かった博士たちは、東方で見た星に先導され、幼子のいる所に行き着いた。彼らはこの上もなく喜び、「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。」(9〜11節)誕生の日、飼葉おけに寝かせられた幼子は、この日は「家」にいて、母マリヤの傍に寝かされていたか、その胸に抱かれていた。マリヤとヨセフは、ベツレヘムでしばらくの仮住まいの後、家を見つけて産後の日を過ごしていたのである。その家は王に相応しいものとは言えなかったであろう。けれども、博士たちは迷うことなく、幼子を王として拝した。そして黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。彼らは幼子を真の王キリストと信じ、宝物をささげた。王に辿り着いた喜びは揺るがず、この方に自分をささげるようにして贈り物をささげたのである。その後、彼らは別の道から帰って行った。(12節)

 彼らは王を拝するために旅に出た。旅に出るにあたり、通常の働きを中断する必要があったと思われる。「その星を見たので」と言った博士たちであったが、見ても、拝みに行こう!と、心を決めなかったなら、エルサレムに来ることはなかった。王の誕生を信じるのか信じないのか、その王にお会いしたいと思うか、そうは思わないかの違いである。王を求める気持ちや王に憧れる思いは、人類にとって普遍性があると言われる。旧約の時代に民が王制を求めたことや、日本人が天皇制を否定し切れないこと、また共和制を敷く国でも、首相の他に元首としての大統領を設けていることなどがそれである。しかし、もし王を求めるなら、真の王こそ求めて、そこに安心を見出し、真の喜びを得ることこそ、全ての人が求めるべきことである。博士たちは、真の王を求め、真の王であるキリストを拝したので、それ以上ヘロデに会うこともなく、彼の命令に従うこともない、と割り切って別の道から帰路に着いたのである。

<結び> 真の王を拝するために旅に出た博士たちの姿、その生き方は、今日の私たちに大切なことを教えてくれる。キリストを真の王と信じて生きるためには、時に明確な決断を神から迫られるということである。罪の故に神に背いた人間は、自分に都合の良い神を求めて止まないものであり、自分に仕えてくれるものを神とし、実に様々な偶像を祭るのを決して止めない。キリストの福音に触れても、自分から従うことはなかなか決心できず、先延ばしする。しかし確かな信仰は、博士たちのように、通常の生活を中断してでも王を求めたように、真剣に神に向かうことによって実を結ぶのである。その真理は、羊飼いたちの経験からも明らかである。彼らも「さあ、・・・行って、・・・見て来よう」と、持ち場を離れることを躊躇わなかった。神の祝福に与るには、思い切った決断が時に必要となるということである。

 今朝、私たち一人一人、真の王であるキリストの前に自分の心の内を、神ご自身によって点検していただきたい。キリストを王として信じているなら、その信仰を堅くしていただくよう祈りたい。真の王キリストを信じる時、この世の何者(何物)をも恐れることのない歩みが約束される。もし中途半端に神に頼り、神の助けを求めているだけなら、今一度、王なるキリストの前に真心からひれ伏し、服従の心を新たにされたい。神への全面的な服従と信頼こそ尊いのである。また今日こそ、キリストを私の救い主、真の王と信じるよう導かれるなら、一歩踏み出すように! まだ信じられない・・・という方も、博士たちや羊飼いたちの経験を心に留めることが導かれるように! 確かにこの世に来られた方、真の王、救い主キリストを信じる信仰が、一人一人の内に実を結び、真の喜びと平安を得ることができるように!!