昨年の元旦、私たちは同じ御言葉を開き、「神の国とその義」との説教題にて神の御旨を心に留めた。先行きの不安の増す時代にあって、「・・・・あれにも頼り、これにも頼ろうとするのではなく、キリストを遣わして下さった神にのみ頼る信仰、この信仰に生涯変わることなく生きることを、はっきり確認してこの年を生きることを導かれたい。神は必ず全ての必要を満たして下さると、主イエスが語られたからである」と。私たち一人一人、その一年をどのように生きてこの新しい年を迎えたであろうか。思いを新たにして、今一度主イエスの教えに耳を傾けてみたい。
1、元旦礼拝において、主が何を私たちに語って下さるのか、私たちは何を聞くべきなのか、実は毎年大きなチャレンジを受けている。この日本の社会では、一年の暦は1月から始まるものの、多くのことが4月から新年度となる。一年に二度思いを新たにすることになる。その都度、主に問い、主からの導きを待つのであるが、語るべきことが明確な時もあれば、なかなか決まらない時もある。今年は、昨年の元旦、2009年度主題聖句と続く中で、この御言葉にどれだけ根ざせたかを問われる思いがする。神への信頼こそ、何ものにも優先すべきこと、分っているならその通りすべきであり、分っていてもできないなら、どうすればよいか。私たちの生き方の全てが、この教えに拠って立つことを思わされるからである。
2、私たち人間は、どれだけ信仰深くあったとしても、なお不信仰であり、日常生活において、様々な思い煩いから完全に解放されることはない。信仰の薄さは自分ではどうすることもできない。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。・・・」と語られた主イエスは、私たちの弱さをご存知の上で、「心配するのはやめなさい」言われたのである。「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」天の父は、子らがあれこれと心配する全てのことについて、分っておられる、知っておられる。にも拘らず、人は心配する必要のないこと、また自分ではどうすることもできないことで、あれこれ心を騒がせることが多い。だから主は、「心配するのはやめなさい」と言われるのである。
3、もちろん信仰があれば、日常生活の全てが順調・・・という訳ではない。信仰によって病が治る訳ではない。仕事が上手く行って金持ちになれる訳でもない。人生の荒波は、時に容赦なく押し寄せる。信仰者に押し寄せるこの世の「不幸」は、人々を大いに戸惑わせ、また迷わせる。「戦争」による「悲惨」、そして「自然災害」や「不慮の事故」は、人を無差別に悲しみと痛みに突き落とす。そんな不平等、不公平を許す神は信じられない・・・と多くの人が言う。けれども、痛みや苦しみの中にあっても、神を仰ぐ者は、神にあって平安を得ることができる。神がともにいて下さることを喜ぶ信仰が、その人を支え、苦しみの中で安らぎを与えてくれる。神の守りと助けは絶大である。神に頼る者は決して望みを失うことはないのである。(※詩篇91篇)
<結び> 選挙による政権交替を経験した日本の社会にあって、今年、私たちは何を、誰に期待するのだろうか。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。・・・あすのための心配は無用です。・・・」との言葉は、やはり、私たちの必要を知っておられる父、生ける真の神を信頼して生きることをしなさい、神を信じて平安を得る、そのような日々を過ごしなさい、との主イエスの命令である。神は必ず全ての必要を満たして下さると、主が語られたことを信じて、この年も歩ませていただきたい。
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