2009年のクリスマス礼拝を迎え、「飼葉おけのみどりご」との説教題にて、ルカの福音書から救い主の誕生の出来事に心を向けるよう導かれた。一年前のクリスマスに、同じ聖書個所、同じ説教題にて礼拝をささげているので、同じ説教にならないよう、心を新たにしてクリスマスの出来事を心に刻み、新しい発見や恵みの再確認が導かれるなら幸いである。
1、この季節を迎える度に思うことの一つは、同じ「クリスマス」でも、救い主キリストを知る前と後では、そのクリスマスが全く違ってしまった・・・という思いである。私にとっては、キリストを知る前のクリスマスは、おぼろげな記憶しかなく、三輪車をプレゼントとしてもらったようだ・・・というだけであるが、その後、幼稚園で救い主のお生まれをはっきり知らされてから、クリスマスは特別の喜びの時となった。過ぎてしまうと、次のクリスマスまでは途方もなく遠く感じたが、成長するにつれ、一年がそれ程長いとは感じなくなったものである。クリスマスを心待ちするその思いも変化したが、キリストの誕生を祝うクリスマスこそ、私たちは祝い続けたいと願うばかりである、
それにしても、毎年確実に巡って来るクリスマスを、誤りなく、正しく聖書から心に刻むにはどうしたらよいのか、そのことがとても気に懸かる。「世界ではじめのクリスマスは・・・」という賛美の歌がある。その歌詞は「ユダヤの田舎のベツレヘム、宿にも泊まれず家畜小屋で、マリヤとヨセフの二人だけ、赤子のイエスさま草の産着、ゆりかごがわりの飼葉おけ、やさしい笑顔にみまもられて、恵みの光が照らすだけ・・・」と続く。ルカ福音書が記す救い主誕生の光景の通りである。この世の人々が祝うクリスマスばかりか、教会が祝うクリスマスも随分と違ってはいないだろうか、とも思わされる。喜びの出来事・・・、でも、ただ浮かれる喜びではない筈・・・と。
2、救い主の母となるべく選ばれたマリヤ、その夫であるヨセフ、この二人は、神の導きに助けられながら、身に降りかかった役割を担っていた。自分たちの理解の及ばないことであったが、マリヤは「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(1:38)と答え、ヨセフも、夢に現れた主の使いが命じたとおりに妻マリヤを迎え入れ、幼子の誕生を待っていた。(マタイ 1:20)その二人に、またも降りかかったのが、皇帝アウグストの勅令であった。住民登録のため、ナザレからベツレヘムへの移動を余儀なくされ、身重のマリヤも旅をすることになった。ヨセフはマリヤの保護者として、彼女を一人残すことはしないで、彼女を守る責任を感じていたに違いなかった。そしてベツレヘム滞在中に月が満ちて、男子の初子の誕生となった。(1〜7節)
幼子は、ベツレヘム到着のその夜に生まれたわけではなかった。滞在中に月が満ちたのであった。飼葉おけには、「布にくるんで」寝かされた。草の産着ではなく、布の産着が用意されていた。二人は、いつ臨月となってもいいように旅をしていたのである。予定外のことは、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」ことである。それで「飼葉おけ」に寝かせたのである。必ずしも急なお産ではなく、その町に滞在していながら、お産のための相応しい部屋はなく、家畜小屋でのお産となり、飼葉おけに寝かせることになった。二人は旅先での不便や不安があったが、幼子の誕生に安堵し、その誕生を喜んだ。二人が計画したのではなかった。けれども、救い主キリストは約束されたとおりに、ベツレヘムで誕生した。神のご計画が着々と実現していたのである。(※ミカ 5:2)
3、救い主の誕生という喜びの出来事は、主の使いによって野原の羊飼いたちに知らされた。(8〜10節)御使いは告げた。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(11〜12節)これは「この民全体のためのすばらしい喜び」として伝えられた。羊飼いたちは、大きな喜びの知らせを、真っ先に知らされたのである。その彼らが今すぐそこに行くなら、必ずお会いすることのできる救い主がおられる、「飼葉おけに寝ておられるみどりご」がその救い主である、と告げられた。そして、そのみどりごにお会いしたなら、あなたがたが、そのみどりごについて人々に告げ知らせる者になりなさい、と命じられていたのである。(13〜14節)
「飼葉おけに寝ておられるみどりご」と聞いて、羊飼いたちは、自分たちでも近づき得る救い主と直感した筈であった。人は通常、意識するとしないに拘わらず、この世での身分や地位に影響されて生きている。「あっ!それは自分には関係ない!!」と咄嗟に判断すると、一歩も先には進まなくなる。羊飼いたちは、知らせを聞いて、「さあ、ベツレヘムに行って、・・・見てこよう」と出掛けた。彼らは、「主が私たちに知らせてくださったこの出来事」として、救い主の誕生のことを受け留めたのである。そして「飼葉おけに寝ておられるみどりご」を捜し当てた。自分たちに主が知らせて下さったことを喜んだのである。マリヤが自分を「主のはしためです」と告白し、主が私に「目を留めてくださったからです」と感謝したように、羊飼いたちも、主の前に心を低くして、喜びの知らせを受け留める者たちであった。(15〜20節)
<結び> 「飼葉おけのみどりご」と聞いて、そんな幼子が「救い主」である筈がない・・・という反応もあるに違いない。しかし、救い主の誕生の出来事の記述には、「飼葉おけに寝かせた」(7節)「飼葉おけに寝ておられるみどりご」(12節)そして、「飼葉おけに寝ておられるみどりご」(16節)と、三度「飼葉おけ」と繰り返されている。その言葉は「小屋」(ルカ 13:15)とも訳されるもので、ベツレヘムでお生まれになった救い主が、どんな人であっても隔てられることなく近づき得るお方として、世に来られたことを示していた。王宮ではなく、家畜のいる場所・・・。但し、確かに近づき得るのは、自分も心を低くする人たちである。「主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と言って、「飼葉おけに寝ておられるみどりご」を捜し当てる、その労を厭わない人々である。(※ファトネー:飼葉おけ、小屋)
今日、私たちはこの救い主に確かにお会いしているだろうか。救い主のお生まれを喜び祝うクリスマス礼拝に集い、「飼葉おけのみどりご」を拝しているだろうか。この方こそ私の救い主と信じているか。マリヤとヨセフは、八日目に幼子を「イエス」と名づけている。命じられたとおり、「主は救い」という意味の名をつけたことに、彼らの信仰が表されていた。「イエス」と名づけられた幼子、その地上の生涯の最後に十字架の死を遂げられた方、この方を救い主キリストと心から信じる信仰を、私たち一人一人も新たにされたい。そして、救い主のお生まれという喜びの知らせを告げる者とされて、それぞれの所に遣わされようではないか。クリスマスの喜びの日々、私たちの喜びの証しを主に用いていただきたいものである。
|
|