礼拝説教要旨(2009.12.13)
賢い人と愚かな人
(マタイ 7:24〜29)

 「狭い門から入りなさい。・・・」「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。・・・」主イエスは山上の教えの全体を心に刻むよう教えておられた。そして最後の問い掛けは、「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。・・・」であった。弟子たちをはじめ人々が、どのように教えに聞き従って歩むのか、生き方を変えるのか変えないのか、あなたはどうするのか、そのことを問うておられた。

1、狭い門と狭い道に対しての広い門と広い道、良い木と良い実に対しての悪い木と悪い実、そして岩の上に家を建てた賢い人に対して、砂の上に家を建てた愚かな人、いずれも正反対のものを対比して、あなたはどちらにいるのかと問うているのは明白である。もちろん、いのちの側にいなさいと勧めているものの、強圧的ではなく、教えを聞いた人が、自分で自分の道を決めることを待っておられた。特に最後の教えは、聞く者に心を定めることを迫り、自分を省みることを促すものであった。教えを聞いただけで去ることのないよう、また一時の興奮や熱狂で終わらないよう、長い人生を神の前で生きることをよしとするよう語っておられた。(24〜27節)

 教えを聞いて心を動かされるということはあっても、その場を去ると、すっかり忘れてしまうことはよくあることである。どんなによい教えを聞いても、その人の生き方が変らないないなら、本当の意味でその教えを聞いたことにはならない。主は、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者」と「聞いてそれを行わない者」とを区別して、「賢い人」と「愚かな人」とに譬えられた。その賢さと愚かさは、岩の上に家を建てることと砂の上に家を建てることに表れると。但し、その違いは一見それ程明確ではなく、違いが明らかになる時は、最早手遅れとなる時であると警告している。主イエスは淡々と語りながら、その実、とても重大なことを語っておられたのである。

2、私たちは、賢さと愚かさをどのように捉えているのか。外に表れる言動やその根本にある考え方など、私たちは賢さや愚かさには実に敏感である。思慮深くあることや、先を見通す判断のできる知性と理性を踏まえる賢さに対して、知恵が足りないため、その場限りの判断しかしない愚かさは、見分け易く、自分はそんなに愚かではないと、多くの人は自負するかもしれない。けれども、意外なことに、人が生きることに関しては、一番肝心な賢さが疎かにされるのである。この世では、仕える者になるよりも、仕えられる者になることを賞賛し、ひたすら成功を追い求めることが目的とされる。主イエスの教えは、その反対のこと、この世の人々には思いがけないことが多かった。私たちは注意深く、主が教えておられる賢さと愚かさに耳を傾けなければならない。

 二人の人は同じように「家」を建てた。生活の必然として水辺に家を建てたと思われる。出来栄えに差はなく、完成後の生活はどちらも快適であったに違いない。そこに至るまでの違いと言えば、一方は完成までに長い時間を要したのに対し、他方は比較的短い時間で完成にこぎつけていたことである。「岩の上」に建てるため、多大な時間と労力を費やしたのと、「砂の上」に建てるに、それ程苦労しなかった違いである。(※ルカ6:47〜49、ガリラヤ湖近辺の地層は地下10m近くに岩盤があり、そこまで掘って土台を堅固にすることがあったという。)丁寧に準備し、慎重に仕事を積み重ね、完成を急がなかったのと、先を急ぎ、辛い労苦をはぶいて完成を喜ぶ、そんな違いがあったと思われる。しかし、その違いは深刻で重大な結末に直結するのであった。

3、恐らく表面に見える土台は、同じだったのではないか。その土台がどこにしっかり繋がっているか、その違いが大事であった。「岩の上」に土台を据えるのか、「岩の上」にまでの労力を省いて、「砂の上」に土台を据えてしまったのかの違いは大きかった。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけた」時、一方は倒れなかったのに対し、他方は倒れ、「しかもそれはひどい倒れ方でした。」「雨」「洪水」そして「風」は、人生の折々に迫る試練であるとともに、究極の裁きの時のことが暗示されている。二人は全く別々のことを経験しているのではなく、同じように試練に遭い、それに耐えながら、遂には全く違う結末を迎えることになるのである。

 「倒れなかった」家と「倒れてしまった」家、しかも「ひどい倒れ方」であったこと、それは何を意味しているのか。見える土台ではなく、肝心な「岩」に繋がった土台を据えること、これがないと人の人生は全く危ういものになると主は言明された。しかも、その危うさは気づいた時では手遅れとなると警告しておられる。今「わたしのことばを聞いてそれを行う者」となるのか、それとも「聞いてそれを行わない者」のまま、ここを立ち去るのかと問い質しておられた。弟子たちも、その他の人々も、教えを聞いた人々は皆、あなたは「賢い人」ですか、それとも「愚かな人」ですか、どちらの人としてあなたは生きようとしますか等など、いろいろな問い掛けをされていた。それぞれが自分の答えを出すことが求められた。「わたしの教えに聞き従いなさい。わたしにしっかり根ざした者になり、わたしを人生の土台としなさい」と。その後も主イエスは、繰り返し「わたしのところに来なさい。わたしを信じなさい」と招いておられる。(※マタイ11:28、ヨハネ10:9〜14、14:1等々)

<結び> 群衆はイエスの教えに驚いた。「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」(28〜29節)主イエスは、神ご自身として語っておられた。淡々とした中にも、決断を迫る勢いがあった。それでもなお、心を開くことなく立ち去る者もいた。皆が信じたわけではなかった。私たちは、今日どのように応答すべきなのであろうか。

 この世にはいろいろな教えがあり、人生を説く宗教は数知れない。けれども、天と地を造られた神がおられ、その神の前に人が罪を犯し、その罪の故に、全ての人が滅びに向かっている事実を明らかにするのは聖書だけである。そして聖書は、その罪と滅びからの救い主として、キリストがマリヤから生まれ、十字架で身代わりの死を遂げたという福音を明らかにしている。主イエス・キリストは、「わたしを信じなさい」と招いておられる。山上の教えを終えるに当り、確かな決断を人々に促しておられたのである。「わたしのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に家を建てた賢い人に比べることができます」と言われたのは、「わたしを信じて、わたしに従う人は、人生の確かな土台を持つ人です」との断言である。そのような「賢い人」としてあなたも歩みなさいと励まされている。私たちが皆、心からキリストを信じる者となり、またキリストに従う者として、一層教えを行う者となるよう祈りたい。心を低くし、仕える者となるように!!