「狭い門から入りなさい。・・・」に続く二つ目の問い掛けは、「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。・・・」との驚くばかりの言葉であった。人が生きる道は二つのみ、そして、いのちへの道はただ一つ、狭い門から入る道のみである。もう一つの大きく広い門と道、それは、そこに向かう人がどんなに大勢いようと、滅びに至るものである。そこまで言明されているので、当然のように導き手がだれであるか、細心の注意が必要となるのである。
1、それにしても、「にせ預言者たちに気をつけなさい」と言われること、それに続く「彼らは羊のなりをしてやっ来る」とは、ただならぬ緊迫感が漂うことである。(15節)主イエスは、山上の教えの全体を通して、ユダや人の指導者たち、律法学者やパリサイ人たちの過ちを指摘していた。彼らの偽善を厳しく責めて、同じ過ちに陥ることのないよう、弟子たちをはじめ人々に語っておられた。そのような誤った教えに気をつけるとともに、「にせ預言者たち」に気をつけよと言われたのである。神から預言者として召されることのないまま、自分で自分を預言者とする、そのような「にせ預言者」また「にせ教師」が現れることを、主は見越しておられたからである。(※マタイ24:24)
「狭い門」から入る者、入った者は、それに続くいのちに至る狭い道を歩むのに、十二分に心して歩むことが求められている。自ら目を覚まし、そして、導き手が誰で、どのような教えを語るのか、常に細心の注意を払わねばならない。何故ならば、そこに「にせ預言者」が紛れ込むからである。彼らは「狼」でありながら、「羊のなり」をして紛れ込むという。これは「神の民」に成りすまして入り込むことであり、御国の民のふり、またキリストの弟子になって近づくという。考えれば考えるほど恐ろしいこと、悲しいこと、そして残念なことである。神の民を惑わし、滅ぼすために「羊のなり」をするので、だからこそ「にせ預言者たちに気をつけなさい」と言われるのである。
2、主イエスの警告の言葉は、それから20年も経過しない間に、初代教会の切実な事柄となっていた。使徒パウロもエペソの教会に向けて警告を発し、一世紀後半には、「にせ預言者」や「にせ教師」の問題は、益々深刻になっていたのである。(使徒20:29、ペテロ第二2:1、ヨハネ第一2:18、4:1) 弟子たちは、「実によって彼らを見分けることができます」と、「良い木」か「悪い木」か、また「良い実」か「悪い実」かを見分けるように告げられた。「ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう」とも語って、弟子たちには見分ける力のあることを前提としておられた。できないことでなく、できることを十分果すこと、それが大事であった。
(16〜20節)
弟子たちにはできること、「実によって彼らを見分けること」とはどういうことか。「良い木」が結ぶ「良い実」と「悪い木」が結ぶ「悪い実」の違いは何か。聖書が「実」と言う時、「行い」に関することが多い。良い行いとして結ぶ「実」のことを言い、人柄の良さなどもその類である。しかし、主は、ただ外面に現れる行いや働きの成果などではなく、別のものを考えておられた。天の父の「みこころを行う」こと、この一点で実を結んでいるか、そのことを判断するように求められたのである。山上の説教が明らかにする教え、天の父が人の心の内を見ておられると知って心を低して生きること、その行き着くことが「黄金律」であると心から信じて歩むこと、そして、その教えを語る者にこそ「良い実」が結んでいることを見分けるようにと。(21〜23節)
3、現実問題としては、なお見分けることの難しさがある。人格的に優れ、実際に成果を上げている者がいるなら、多くの人がその人を優れた「預言者」また「教師」と認めるに違いない。彼らが、主の名によって預言をし、主の名によって悪霊を追い出し、主の名によって奇蹟をたくさん行うのを見させられるなら、果たして、私たちは見分けることができるのだろうか。神の民として天の御国に迎えられる者は、主イエスの教えをしっかり聞き取り、その教えと違うものを聞き分けることが求められている。多くの人を引きつけ、成果を収め、驚くような業を行っていても、実際には羊のなりをした狼であるなら、よほどの注意が必要であり、注意し過ぎることはないのである。
主イエスの教えと、当時のユダヤ人の指導者の教えの違いは、本質的には今日に至るまで同じなのであろう。人の評価を全く当てにせず、心を見る神の前に生きることを説く教えと、周りの人からの評価を当てにする生き方を説く教えとの違いである。旧約聖書を持ちながらも、その教えの本質を取り違えていたのを、主イエスははっきりと指摘された。その上で、弟子たちや当時の人々に、永遠のいのちへの道を説き、「狭い門から入りなさい。・・・にせ預言者たちに気をつけなさい。・・・」と語り、いのちへの道を聞き分け、ゆめゆめ惑わされることのないようにと語られたのである。それだけ事が深刻であったとは、驚くばかりでもあり、私たちも目を覚ましていなければならない。
<結び> 今朝のこの個所には、弟子たち自身が「にせ預言者」に成り変ることのないようにとの警告も、当然含まれている。また、今日の私たちも、道を誤ることのないように心を戒められる。けれども、「私は天の御国に入れていただけるだろうか」と心配し過ぎるのは、主イエスの教えを取り違えることになる。主イエスは、天の御国に入る筈の人が、この地上でにせ預言者たちに惑わされ、道を逸れることのないよう「気をつけなさい」と言っておられる。そのために、一層主イエスの教えをしっかりと聞いて、その教えと違うことを説く預言者や、また教師を警戒せよと言われているのである。
今日、果たして「にせ預言者」がはびこっているのだろうか。私たちの教会に「にせ預言者」が入り込む余地はないと言えるのか。この世的な成果主義が、残念ながら教会にも入り込み、ついつい私たちの心が騒ぐとしても、主は「狭い門」から入り、いのちに至る「狭い道」を迷わされることなく歩み続けることを、私たちに教えて下さっている。天の御国を目指して、迷うことなく主イエスの教えに聞き従い、主の歩まれた道に従って生きて行きたい。十字架でいのちを捨てられたイエスこそ、真の救い主である。身代わりの死を遂げるためにこの世に来られ、悲しみと苦しみを味わい尽くして下さった方、この方を信じる信仰を、この季節に一層堅くされるなら幸いである。
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