礼拝説教要旨(2009.11.29)
狭い門から入りなさい
(マタイ 7:13〜14)

 「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(12節)この「黄金律」をもって、主イエスの山上の教えの本論は締めくくられていた。7章13節からは、これら一連の教えの結論が聴衆への問い掛けとして語られている。「狭い門から入りなさい。・・・にせ預言者たちに気をつけなさい。・・・だから、わたしのことばを聞いて行う者はみな、・・・」と、三つの譬えをもって、教えを聞いた者たちに、あなたがたは今どのように歩んでいますか、また、どのように歩もうとしますかと問うのである。

1、主イエスの教えも、その教えの語り方も、決して強圧的なものではなかった。聴衆を震え上がらせることなく、淡々と語られていた。しかし、聞きっぱなしにはできない迫力があった。(38〜39節)教えを聞いた者は、自分はどうするかを、人に言われたからではなく、自分自身で心を決めることを求められていたのである。最後の教えは、正しくその決意を三つの例話によって促していた。聞いた人々の反応は様々であったであろう。弟子たちは改めて、自分たちの生き方の幸いを認識させられたに違いない。遠巻きに耳を傾けていた人々の中にも、生き方の転換を促された者もいたであろう。けれども、反論したい人や、無反応のまま、そこを去る人々も多かったに違いなかった。

 主イエスは正に、そのような人々の心を内を見透かすように、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです」と語られた。(13節)「狭い門」「狭い道」を「広い門」「広い道」と対比し、その行く先が、「いのち」か「滅び」かを明言された。「狭い門」とは、ただ狭くて入り難い門というわけではない。狭くて潜り抜けるのに苦労する門というのでもない。入るにも、入ってからも大変な修業を要するというわけではない。「広い門」から多くの人が入って行くのに比べて、「狭い門」を見出す人はまれで、そこに入ろうとする人が少ない、そんな狭さのある門である。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(14節)永遠のいのちに至るには、ただ一つの道だけがあるという、その狭さである。

2、世の多くの人はこぞって「広い門」に殺到しているのに対して、「狭い門」は、人々から見向きもされず、敬遠されるばかりである。それでもその「狭い門」を見出して、そこに続く狭い道を歩き続けるか、そのことを主イエスは問われた。人間の生まれながらの性質は、他の人と同じようでいたいと考えるものであり、なかなか自分で自分の道を決めることはしない。多くの人が行く所に、自分も一緒に行くことで安心を見出そうとする。人と違う道を選び取ることは難しく、多くの人と共にいることに惹かれるのが普通である。けれども、どんなに他の人と違っていても、あなたは「狭い門から入りなさい」と命じられたのである。そして、その狭い道を歩み続けなさいと。

 何故ならば、その二つの門と二つの道は、全く違った所へと通じているからである。狭い門と狭い道は、「いのち」に行き着くのに対して、多くの人が殺到している、広く大きな門と道は「滅び」に至るもの、決して歩んではならないものである。人が歩むべきいのちへの道、そして、そこに通じる門が見出し難いとは、どういうことか。隠れているわけではない。見えないのでもない。そこに開かれているにも拘わらず、その前を通り過ぎる人が多く、また一度は入ろうとしても、そこに留まることをせず、その道から逸れる人が多い、そのような難しさである。主イエスの教えは、世の人々が求める見栄えのよさや、また力強さからは遠いものであった。そのために人々はなかなかイエスを信じようとしなかったからである。(※コリント第一1:18以下)

3、教えを聞いていた弟子たちは、既に「狭い門」から入って、いのちに至る道を歩んでいる人々である。もう一度改めて入り直すように求められたのではなかった。彼らは一層その道を前進するよう励まされたのである。漫然と過ごすことなく、はっきりと「いのち」に至る道を歩いていることを認識すること、その道を共に歩む人々と励まし合うこと、支え合うことなど、もっともっと確信をもって生きるように促されたのである。全ての人は、どちらかの道を歩んでいるわけであり、そのまま進んでいのちに至るのか、それとも滅びに至るのか、それはとても深刻なことである。多くの場合、その深刻さは省みられず、今自分はいのちか滅びかを選べる所にいると錯覚する。しかし、実際は真剣に、滅びか、それともいのちか、あなたはどこにいるかと、全ての人が尋ねられているのである。

 弟子たちは、自分がどこにいるのか、その確信を問われていた。そして、今いる所にしっかり立って、その道を歩むように、広く大きい門と道に心を誘われても、細く狭い道を歩み続けるように勧められていた。昔も今も、人の心はより常識的な生き方を好み、人と違う道、また人が嫌う道を敬遠する。それでもいのちへの道を歩み続けるのか、キリストの弟子たち、天の御国の民は覚悟するよう求められている。けれども、主イエスは、弟子たち一人一人を無理やり説得したり、強迫的に心を決めさせることはせず、自ら進んでイエスに従うことを待っておられた。それで、「狭い門」と「広い門」、「狭い道」と「広い道」、そして「いのち」と「滅び」を対比して考えさせておられた。

<結び> 私たちは、これからどの道を歩もうとするのか、その選択をしなさい・・・と、そう促されているわけではない。門も道も二通りしかない。これから右に行こうか、それとも左に行こうかと考え、選べる所に立っているわけではない。今自分はどこにいるのか、はっきり悟ること、それが肝心なことである。既に主イエスをキリストと信じていのちの道を歩んでいるのか、いずれ行く道を決めようと、自分ではっきり気づかないまま滅びの道を歩んでいるのか、人の生き方にはこの二つしかない事実を見落としてはならない。

 主イエスはそのような、実に深刻なことを語って、弟子たちに今一度自分の生き方を問い、永遠のいのちに至る道を歩む幸いを喜ぶように、また感謝するように語っておられたのである。私たちも一人一人、自分は今どこにいるのか、今どのよう生きているか、確かにいのちに至る道を歩んでいるか、自分の心に問うてみたい。そして、大きく広い門と道に心騒がせられることなく、いのちに至る道を、どんなに狭くても、確かに歩ませていただきたいのである。
(ヨハネ 10:9〜10)