礼拝説教要旨(2009.11.22)
天国市民の黄金律
(マタイ 7:12)

 「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(12節)この言葉は「黄金律」と言われ、多くの人によく知られている。神の民の生き方や考え方がこの教えによく表されており、キリストの弟子のみならず、全ての人がこのように生きるなら、世の中の多くの問題は、必ず解決するに違いないと思う位、大切な教えである。主イエスはこの教えを、「求めなさい、そうすれば与えられます。・・・」という祈りの勧めのしめくくりに語られた。神の民が祈るのは、祈りに答え、ご自分の子には「良いもの」を必ず与えて下さる天の父がおられるからである。天の御国の民は、父からの良いものを約束されており、この地上にあっても良いもので満たされている、そんな幸いな者たちなのである。

1、主は、そのように満たされている弟子たちに、「それで(だから)、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」と命じられた。満たされた者として生きるようにと。もしこの視点を欠くならば、この教えは、単なる「良い教え」、あるいは「すばらしい教え」の一つのままである。「理想」に過ぎず、そんな「理想」に誰も到達する筈がないと、掲げるだけの教えになってしまう。人の世で理想を掲げることはできても、そこに行き着けない現実があり、せめて「人に迷惑を掛けずに生きていきたい・・・」とか、「人の嫌がることはしないでいたい・・・」となるだけである。

 主イエスは、そんな消極的な考えではなく、積極的に「・・・しなさい」と命じられた。それは、神の民には父がおられるからであり、父が満ち足らせて下さるからである。無理なことが要求されているのではなく、新しいいのちに生かされている自分に気づくなら、必ず可能とされていることが求められていた。これは山上の教えの全体について言えること。もし、生まれながらのまま、主イエスの教えを道徳的な生き方として受け留め、これを守ろうとするなら、決して守れない事実に苦しむのである。主はその限界を認め、罪ゆえの惨めさを知ることを弟子たちに教えておられた。神の聖さを知り自分の罪深さを認める者、そして天の父に祈る者、天の御国の民とされた者が、心を低くして周りの人に仕える者となる時、教えに従って生きることが導かれるのである。

2、「仕える者となる」こと、これこそ主イエスがこの世に来られた目的であった。そして、この教えについて、「これが律法であり預言者です」と言われた。旧約聖書全体がこの教えに要約されると。主は別の機会に、第一の戒めは「あなたの神を愛しなさい」、そして第二は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」であると要約された。(マタイ22:37〜39)また、ご自分が世に来られたのは、「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり」(マタイ20:28)と語られた。仕えることの究極が十字架の贖いの死、身代わりの死であった。主イエスにおいて、「仕える」ことは「愛する」ことであり、聖書全体は、神の愛を知り、その愛に生きること、具体的に人を愛し、人に仕えることを教えている。周りの人への配慮を欠いた振る舞い、それは神の愛から出たものではない・・・というのが主イエスの教えだったのある。

 私たちは、いつも愛によって促され、自分から他の人に仕えることを進んでしているだろうか。愛することは仕えること、仕えることは愛すること・・・、どう言い換えたとしても、なかなか、愛することと仕えることが重なり合うのは難しい。生まれながらの性質は、愛されることを求め、また仕えられることに心地よさを感じるもの。しかも自分がして欲しいことは、いつでも山ほどあり、欲求の尽きなさを実感する。けれども、そのような自分を知ることによって、他の人に対する自分の責任を知りなさい、人を愛することも、人に仕えることも、それは果てしのない位に大きな責任であることを悟りなさい。そして、だからこそ父を信じ、父なる神に祈って、神に必要を満たしていただいて歩みなさい、と言われているのである。

3、弟子たちは、自分のことをどのように認識していたのであろうか。パリサイ人や律法学者たちは、自分で自分を義とする人たちであった。そのような人には厳しく戒め、彼らを退けられた主イエスであったが、自分の弱さや愚かさを知る者、また罪深さを嘆く者には、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と語っておられた。天の父の前に心を砕かれているなら、そして心を低くして互いに仕え合い、支え合う必要を知ることによって、その時、人から何かをしてもらいたいと願うことより、自分から人のためにすべきことに目が開かれるのである。自分を知ること、その自分は大いに欠けがあるにも拘わらず、天の父から十分に満ち足らせていただいいると知ることが力の源となるのである。(※使徒の働き 20:34〜35)

 人は生まれながらのままでは、ただ自分のために求めるばかりである。自分にしてもらいたいことを求めては、してもらえないことを嘆くことになる。愛されないことを嘆き、自分から愛することはしないで、満たされないと不満を抱く。しかし、神の民となり、キリストの弟子となった者は、今この世にあって生きているが、天の御国の民、天国の市民となった者たちである。生まれ変わった者、新しいいのちを与えられて生きているのである。自分よりもほかの人を優先させることのできるいのちを、内に宿しているのである。キリストご自身が内にあって生きておられるからである。こうして自分では不可能なことが現実となり、考えられない不思議を生きることになるのである。

<結び> マタイ7章12節は、単なる「黄金律」(ゴールデンルール)なのではない。生まれ変わった御国の民、天国市民の黄金律なのであって、私たちは、ただそれを目標とするのではなく、キリストを信じる者、キリストの弟子であるからこそ、この教えに従うように生かされている。この教えを心に留める時、同時にキリストがこの世に来られた目的を思い返すことが助けとなる。「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、・・・贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである・・・」主は弟子たちも真実に仕える者となるよう願っておられた。今日の私たちにも、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」と命じ、愛をもって仕える者となるよう求めておられる。

 私たちはこの期待に答えられるだろうか。生まれながらのままでなく、天国の市民であるなら可能なのである。この世にありながら、御国の民としての歩みをぜひさせていただきたい。それは世の人からは不思議と見られる歩みかもしれない。その不思議をもって証しできるなら、何と幸いであろうか!