「さばいてはいけません。さばかれないためです。・・・聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはいけません。」(1節以下)主イエスは弟子たちに向かって、この地上で生きる時、心を低くし、聖さを求めて歩むようにとの教えを語っておられた。実は6章1節以下、天の御国の民とされた弟子たち、神の子たちがこの世で生きる上での注意事項が続いていた。多くが「・・してはいけません」「・・はやめなさい」と語られ、生き方が狭められるよう感じるのは避け難かった。(主イエスの教えは、全くそうでなかったが・・・)けれども、この7節からは一転、積極的に「・・しなさい」との明言が続く。先ずは祈りに関する力強い励ましが語られる。(7節)
1、この転換は、前節の教え「聖なるものを犬に与えてはいけません・・・」と関連がある。主イエスは、弟子たちに「あなたがたも聖なるものとなりなさい」、あるいは「聖なるものとされなさい」と命じておられた。けれども、弟子たちは正直なところ、「聖さ」からは遠い自分を認めないわけにはいかなかった。聖なるものを汚す犬は誰か・・・と識別するどころか、自分が聖なるものを汚すことがある事実を否定できないのである。私たち自身のことを考えれば、よく分ることである。思いと行いにおいて失敗を繰り返し、何度悔い改めても、なお過ちを犯す弱さを私たち人間は自分では克服できないのである。
これは全ての人が神の前に罪があることの歴然とした証拠であり、誰もが認めなければならない人間の姿である。弟子たちは、神の子として、既に神の聖さに与る者であるとしても、なお聖さから隔たっている者でもあるという現実を認め、いよいよ神にならうこと、神の聖さにならうことを追い求めなければならなかった。もし、自分の弱さや愚かさに打ちのめされ、沈んでしまうだけなら、その人の信仰は何の役にも立たないことになる。また役に立たない信仰など捨ててしまいたいということにもなりかねなかった。自分の行いを誇り、自分を正しいとする人がいるとしても、主イエスは一貫して、自分で自分を正しいとする信仰を退け、かえって自分の弱さや不信仰を認める信仰をよしとし、心を低くする者を励ましておられたのである。
2、主イエスは、弱さを認め、足りなさを感じている弟子たちに向かって、「求めなさい」「捜しなさい」「たたきなさい」と、祈りにおいて積極的に父に求めることを命じられた。「聖さ」において欠けがあるなら、嘆いてばかりいるのでなく、父に祈り求めなさい。「弱さ」があるなら、強くしていただくよう求めなさいと言われた。祈りには、「求めること」、「捜すこと」、そして「たたくこと」など、いろいろな祈り方があることを示された。すなわち、「与えて下さい」と求めることから、「何が私に必要か教えて下さい」と捜し求めること、更に「今これが必要です」と必死にたたいいて訴えることも祈りの姿なのである。弱さに気づく弟子たちこそ、神に祈ること、神に求めることをしなさいと。
祈りは、時に必死になって、忍耐強く祈り続けるべきものである。「求め続けなさい」「捜し続けなさい」「たたき続けなさい」というのが、ここで言われる大切な一面である。求め続ける祈りは必ず聞かれる。「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(8節)聞かれるか聞かれないか、定かでない祈りを人は祈れるものではない。全ての人に祈り心があり、誰もが折に触れて祈るとしても、聞かれるかどうか、確信のないまま祈るのは空しいことである。主は、そんな空しい祈りをすることのない根拠を弟子たちに明言された。ご自分の民の必要をご存知の父がおられ、その父が必ず答えて下さるからである。そして、その確かさについて一層はっきりと語られた。(9〜11節)
3、天の父がご自身の民に対して、良いものを与えて下さるのは、民をご自身の大切な子と認めておられるからである。人間の父親が自分の子に、何とかして良い物を与えようとするなら、天の父はそれ以上に良いものを与えようとなさるのである。主は、人間の父親の場合、「悪い者ではあっても」と語って、悪を行っている者、不完全な者であったとしても、それでも自分の子には良い物を・・・と考えるなら、「なおのこと」天の父は、求める者に「良いもの」を与えて下さると明言された。天の父は愛に富む方、子の必要を完全に知っておられる方である。そんな方を父と仰いで祈ることのできる民は、真に幸いな民なのである。
祈り求めたこと、また祈り求めたものが、必ずしも与えられないとしても、神は祈りに相応しく答えて下さっていることがある。また祈りに今直ちに答えられることがなくても、多くの時間が経過した後に答えられることがある。如何なる場合でも、天の父が「良いもの」を与えて下さると確信する者は、祈ったことは必ず聞かれ、そして祈ったことはもう既に聞かれたと信じて祈り続けることができる。祈りは単なる願い事ではなく、神への信頼の思いの告白そのものとなるからである。父が「良いもの」としての「聖霊」を与えて下さることにより、父の心をわが心として喜ぶ信仰が増し加えられる。こうして聖霊を与えられた弟子たちは、その聖霊に導かれ、励まされて祈り続けることが可能となる。祈り続けられることは聖霊によることであり、聖霊による祈りは必ず聞かれるのである。(※ルカ11:13)
<結び> 主イエスは、「良いもの」としての「聖霊」を与えられた弟子たちは、その聖霊によって導かれて祈ることができる者となっていることを悟らせようとされた。だから祈り続けなさい、捜し続けなさい、そしてたたき続けなさいと命じておられた。父なる神の聖さに叶う者に変えられることを願い、一層キリストに似る者と成らせて下さいと祈り続けること、またキリストに相応しい者として歩む道を捜し求め、この地上の生涯を生き抜かせて下さいと祈るよう期待しておられた。これから先の進む道がはっきりせず、迷うことや悩むことがあっても、その時はたたき続け、私の行く道を示して下さいと祈ることが、弟子たちの成すべきことなのである。
主イエスは私たちを含め、弟子たちが祈りにおいて、躊躇うことなく前進するよう励ましておられる。弱さによって迷うことがあり、また自分の信仰の歩みが遅いと感じることがある。その時、父なる神と御子イエス・キリストを信じ、聖霊に導かれて祈り続けるなら、必ず道は開かれるのである。弱いからこそ祈る者は、その祈りによって必ず強くされる。そこに神の力が働くからである。私たちはそんな不思議を体験させられて生きている。主が共におられることの確かさ、祈ることの幸いを一層感謝する日々を歩みたいものである。
(※ヨハネ第一5:14〜15、ピリピ4:6〜7)
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