7章に入って、主イエスは、この世で生きる弟子たちが互いに受け入れ合うこと、決してさばき合うことのないように、との教えを先ず語られた。「互いに愛し合いなさい」との教えは、主が弟子たちに語られた最も大切な教えであり、天の御国の民は、キリストにあって罪の赦しの恵みに与った者たちであることを、片時も忘れてはならないからであった。けれども、「さばいてはいけません」という教えは、ついつい善悪や正邪などの判断を先送りするために使われたり、誤用されることがある。そこで主イエスは、「聖なるものを犬に与えてはいけません。・・・」と語って、聖なるものを聖とし、正しいことを正しいとする生き方を、弟子たちが確かに身に着けるようにと諭された。
1、天の御国の民となったとしても、キリストの弟子たちがこの地上から天に移されるのは先のことである。この厳然とした事実のゆえに、弟子たちはこの地上で生きる時、実に様々なことに関わりながら、いつも何らかの判断を迫られている。その時、事柄の善し悪しはもちろん、特定の人について、自分勝手な規準を振りかざすことは厳に慎まねばならないことである。しかし、神の目に叶う善、神の正しさを見分けて判断すること、神の前に聖なることか汚れたことかの判断は極めて大事なこと、神の民である弟子たちは、十分に心して判断を下すことが求められている、と主は語られたのである。
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません」と主は言われた。「聖なるもの」と「真珠」によって、神が聖とされるもの、神のために聖別されるものを示そうとされた。神の用に共するものは「聖なるもの」であり、「真珠」は「天の御国」に譬えられ(マタイ13:45)、箴言では「知恵は真珠よりも尊く」と語られている(箴言3:15)。神を恐れる知恵や信仰は「真珠」よりまさるものとされるのであって、「犬に与えてはいけません」「豚の前に、投げてはいけません」とは、神を恐れる知識や知恵、そしてキリストを信じる信仰をいささかも軽んじることなく、その尊さを知らない者や敵対する者の前に提供して汚されるようなことは、決してしないよう注意しなさいと言われたのである。
2、「犬」は今日でこそ愛犬となり、家族の一員とされるが、当時、多くは野犬であり、野良犬であった。汚らわしい動物とされ、「敵」を「犬」「犬ども」と言って「悪い人」や「偶像を拝む者」を指し、また旧約聖書では、自分を卑下して「おれは犬なのか」と表現することがあった(ピリピ3:2、黙示録22:14、サムエルT17:43)。「豚」についても、汚れたもの、汚れた動物として食べてはならないもの、どんなにきれいにしても、また汚れの中に帰っていくその習性が背教する者の姿に譬えられる(レビ11:7、ペテロU2:22)。異教徒、偶像礼拝者、またキリストに敵対する者、迫害する者など、そういう者たちに対して、聖なるものとしての「福音」を、ただ提示しても汚されるままになってはならないのである。
「聖なるもの」また「真珠」で言い表されるものは、確かに「福音」であり、キリストの教えの一つ一つである。「それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」と言われるようなことが、実際に起ると考えたくはない。けれども、教会の歴史は、間違った教えとの戦いの歴史であり、外からの攻撃もあり、内からの攻撃もありの壮絶なものでもあった。使徒の働きの時代の教会で、アナニヤとサッピラによる偽りの献金事件があり、また金で神の賜物を手に入れようとした魔術師シモンがいた。(使徒の働き5:1〜6、8:9〜24) 日本の教会の歴史においては、迫害のために役人が教会に入り込んで、信者となって内側から切り崩そうとしたことも知られている。「聖なるもの」が軽んじられるのは、内からも、外からも注意が必要となるのである。
3、主イエスは、この教えを弟子たちに語って、何を一番伝えようとされたのだろうか。一方で、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じ、他方で、「聖なるものを犬に与えてはいけません」と注意を促されたのは何故だろうか。「福音」をそれはそれは尊いものとするように、それが第一である。天の神を父と仰ぐ信仰こそ大事にして、神を喜ぶ者として生きること、それが第一のことである。その次に、弟子たちが本当にその信仰に生きているかどうかを、自分で自分に問うことを求めてこの教えを語られたのではないだろうか。「聖なるもの」を「聖なるもの」としているか、「真珠」を「真珠」として大切にしているか、自分が「犬」のようであったり、「豚」になってはいないか、自分を問うてみなさいと。
前節で、「偽善者よ。・・・」と厳しく語られた主は、弟子たちに、決して偽善者にならないようにと語られたのと同じように、ここでも「犬」や「豚」となって、「福音」を軽んじることなく、自分自身が聖なる方にならって、いよいよ聖なる者とされることを追い求める者でありなさい、と教えているのである。信仰の歩みは、時に強い弱いが気にかかり、信仰の有る無し、優劣、厚い薄いまでもが云々されることがある。確かに生まれたばかりの乳飲み子の時期があり、やがて成長して大人になるべきことが期待される。パウロは、成長の遅い人のことを「肉に属する人」と呼び、「キリストにある幼子」「ただの人」と言っている。初歩の段階から進んで、成長すること、成熟した者となることが弟子たちの一人一人にとって大事なことであった。(コリントT3:1〜3)
<結び> その成長と成熟は、この地上にある限り終わりがないとしても、ただ一人、真に聖なる方であるキリストの聖さにならうことによって、日々聖くされ、より成熟した者へと進ませられることが大事である。その時、もし自分で、何がしかの所に達し得ていると安心するなら、それは最も聖なる方に対し、不遜にも「犬」や「豚」のようになってしまうのである。どこまでも「聖なる方にならって、あらゆる行いにおいて聖なるもの」とされること、これが私たちにとって祈り求めるべきことである。主イエスは弟子たちに向かって、いよいよ「聖なるものとされなさい」と勧めておられた。そして、聖なる方にならう弟子たちが福音を人々に提示して、人々がそれを拒むことなく受け入れること、キリストの弟子となることを願っておられたのである。
(ペテロT1:15)
弟子たちが「聖なるもの」「真珠」を大切にし、自らが「聖なる方にならって」生きていることが肝心であった。福音に相応しい人を捜し、見つけ、そして福音を提示せよ・・・と命じられたのではなく、福音を割引いたり、その中味を薄めることなく提示し続けること、そのように生きることが求められている。キリストが十字架で死なれたこと、三日目によみがえられたこと、その十字架と復活が真に「聖なるもの」「真珠」であることを心に留め、聖なる方にならう者にならせていただくこと、それが私たちの心からの願いとなることが求められているのである。
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