礼拝説教要旨(2009.10.18)
罪の赦しの恵みに生きる
(マタイ 7:1〜5)
 キリストの弟子たちは、神の子とされ、天の御国の民とされた幸いな者たちである。この地上にある限りは、富の惑わしや日々の心配事によって、心を騒がせられることが尽きないとしても、天の父の守りと豊かな養いは、決して揺るがない。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。・・・」と命じられていた。この地上で注意すべきこと、それは、何があろうと先ずは、神への信頼と服従であると。そして次は、御国の民の間で互いに受け入れ合うことと、神の子たちの交わりについての注意を促された。

1、神の子とされ、天の御国の民となったとしても、私たちを含めてキリストの弟子たちは、この地上から天に移されるのは先のことである。この世での日々の生活があり、その時々、心して生きることが求められている。どれだけ聖い生活をしているか、また神の教えに忠実に従っているか、その生き方や考え方、実際の生活態度など、常に人の前にさらけ出されている。ともすると、神の目より人の目を気にして生きることになる。その内に、自分のことは棚に上げて、人の言動が気になり、ついには互いに批判し合うことになる。主イエスは弟子たちの間にも、そのようなことが起ることを見越して、「さばいてはいけません。さばかれないためです」と教えておられる。(1節)

 「さばく」とは、「判断する」という意味の言葉である。人に対し(また物事についても)、誤った判断を下してはならないこと、そのことに注意しなさい、と主は言われた。人は愚かにも、他の人を誤った判断でさばき、互いに傷つけ合うことをするものである。「さばいてはいけません」は、習慣的に繰り返しさばいてしまう、そんな態度を戒めている。それはいちいち人のあら捜しをする批判や、相手を打ちのめして勝ち誇る自慢など、およそ自分の身の程を忘れた態度である。周りの人のことになると、しきりに批判する、その過ちを弟子たちも犯しかねなかった。それ故に「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、・・・」と言われるのである。(2節、※ルカ6:37)

2、「さばいてはいけません」を、一切の「さばき」について当てはめ、「裁判」をも含めて、クリスチャンは「さばき」に加わらない、と考える人がいる。しかし、主イエスは善悪の判断を決して否定してはおられない。聖なるものと汚れたものを見分けることも求めておられる。(6節)兄弟が罪を犯しているなら、その罪を見過ごしてはならない。公の裁きは、この世でも、教会でも下さねばならないものである。主が言われたのは、周りの人、兄弟姉妹に対して、自分の基準で判断して「さばく」こと、徒な中傷やあら捜しになりかねない批判についてである。それは弟子たちの陥り易いことだったのである。

 弟子たちが心すべきことは、自分がさばく量りで、自分自身がさばかれることであった。誰によってさばかれるのか、明らかにされていない。けれども、究極のさばき主は、天の父なる神であることは明白である。神の子たち、御国の民が信ずべきことは、神がおられ、人を偏り見ることなく、全てのことの善悪を正しくさばかれることである。弟子たちがさばき主がおられると知って生きること、信じて生きること、それを主は望んでおられた。それは、彼らが神の前に慎み深く生きるためである。罪の赦しを与えられた者が、その赦しの恵みを忘れること程、空しく、悲しいことはない。「目の中のちりと梁」の教えはそのことを明らかにしている。(3〜5節)

3、人をさばくことの愚かさは、「兄弟の目の中のちり」を見つけながら、「自分の目の中の梁」には気づかないことに現れる。気づかないまま、「あなたの目のちりを取らせてください」と言うが、そんな理不尽はない。「ちり」と「梁」は比べようがない位、その大きさが違っている。小さな「ちり」が目に入った時の痛みは、想像以上に大きい。けれども、その「ちり」を目で確かめるのは難しく、まして取り出すのは、もっと難しい。その小さな「ちり」を、目に大きな「梁」が入ったまま人が取ろうとするのは、有り得ないことなのである。自分の目の異常に気づかないまま、兄弟の目の「ちり」を・・・とは、決して言ってはならないことである。

 主は「偽善者よ。・・・」と、厳しく語られた。もう一度、出発点を思い出すこと、原点に帰ることを告げられた。誰でも、「まず自分の目から梁をとりのけなさい」と。目の中の大きな異物が取りのけられ、はっきり見えるようになること、それが先ず必要なことである。誰でも、自分自身の最大の過ち、罪を認め、その罪を取り除かれることがなければならない。弟子たちは、キリストによって罪を赦された者たちである。その事実をよくよく知ってはじめて、兄弟の欠けや過ちに対して、言うべきことを告げ、また正すべきを正すよう手を差し伸べることができるのである。もし、自分のことを棚に上げて、何事かを兄弟に忠告しようとするなら、それは「偽善者」のすることに他ならない。周りの人のみならず、自分をも偽るからである。

<結び> 「さばいてはいけません。」この教えは随分と誤解され、キリストの弟子たちがどのように生き、どのように互いの交わりを築いていったらよいのか、多くの混乱をもたらしている。「さばかない」ことによって、何が正しいかの判断を曖昧にしたり、その反対に、お互いに厳しくし過ぎることにもなる。主イエスは、あくまでも弟子たちの間で、神の子たち、天の御国の民たちの間で、勝手な基準を振り回して「さばく」ことを戒めておられるのである。誤った決め付けや思い込みによる批判などを慎むことが求められる。それよりは、自分が罪の赦しの恵みを受けたこと、その恵みによって、今生かされていることこそ感謝すべきことなのである。(ローマ5:6〜8、コリント第ー1:18)

 私たちが今あるのは、全くの神の恵みによることを見失ってはならない。自分では取り除くことのできない罪を取り除かれ、赦され、今、生かされていることを知るなら、その赦しの恵みを喜ぶ者として、互いの交わりを喜び、感謝することが導かれるのである。もし兄弟の弱さや欠けに気づくなら、その「ちりを取らせてください」ではなく、その兄弟もまた、罪の赦しの恵みに与ったものであることを覚えて、その「ちり」のために祈ることが求められる。そうする時、やがて互いに祈り合う交わりへと進ませていただけるに違いない。主イエスは、ご自分の弟子たちに、そのように互いに思いやる者となることを願っておられた。罪を赦された恵みを決して忘れないこと、その恵みに生きること、生き続けること、それを私たちにも望んでおられるのである。