礼拝説教要旨(2009.10.11)
まず第一に求めるべきもの
(マタイ 6:31〜34)
 主イエスは、天の御国の民とされた弟子たちが、この地上で確かな歩みをするように、既に神のみ手の守りの中で、どんなにか幸いな日々を約束されているのかを悟るように、教え励ましておられた。この地上に溢れる神のみ業に目を留めることによって、ご自身の民にはどれほどの幸いを備えて下さっているのかを知りなさいと。その教えのクライマックス、締めくくりが31〜34節である。もう一度、「心配するのはやめなさい。・・・」と、かなり強く、心配や思い煩いは一切やめなさいと語り、あなたがたは神のみ手の守りの中にある、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と言明された。

1、弟子たちは日々の生活のことで、ただ「心配するのはやめなさい」と言われているのではなかった。日常生活の心配事や思い煩いというものは、異邦人、すなわち神を知らない人のもの、彼らは、自分の生活は自分で満たさねばならないからである。彼らは自分の力だけが頼りで、自分の知識や能力を使って懸命に働くことになる。それによって富を蓄えたとしても、その富がいのちの保障にはならないのは明らかである。けれども、神を信じる者、神の民には天の父がおられ、ご自分の民のためには、父が必要を知って備えて下さるのである。天の父を信じる者、神に信頼する者は必ずや心配事から解き放たれる。だから「心配するのはやめなさい」と言われるのである。(31節)

 神が地上の生活の全てを備えて下さる、必要を知っておられると信じること、確信すること、これが異邦人と神の民との絶対的な違いである。弟子たちはその違いに余り気づかずにいたのであろう。それは私たち自身のことでもある。神の絶対的な守りを頭ではよく分っていても、つい現実のこと、目の前のことになるとうろたえる。天の父のみ業が地に満ちていること、一人一人の生活の全てに行き渡っていることを見出すことによって、私たちの信仰は必ず強くされ、大きくされるに違いない。主は言われた。「しかし、あなたがたの父は、それらがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」私たちに何が必要であり、何が大事であるかをご存知の父なる神がおられることは、私たちにとって、この上ない幸いであり安心の源なのである。(32節)

2、その幸いの中にある者、神が共におられる幸いを生きる者、すなわちキリストの弟子である天の御国の民に対して、主は語られた。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(33節)「神の国」を求めるとは、神のご支配を求めること、また喜ぶことである。そして「その義」を求めるとは、神が良しとされること、神の御旨を求めて喜ぶことである。神の民が、神と共にあることを喜び、そのご支配の下にいることを大喜びして、神に仕える者となるように、日毎の生活の中で、神が良しとされることを追い求め、神のご支配の下で生きることを喜ぶように、また感謝の日々を送るようにと促されている。

 主イエスは、「まず第一」に求めるべきものとして「神の国とその義」と言われた。神の民にとって、何にもまさって、最も大切なものは「神の国とその義」である。神のご支配が自分にとっての最大の関心であり、喜びであるか、また、神の義をいつも追い求め、その義に生きることを喜んでいるか、私たちの心の内が探られる。祈りにおいて神に向かうことが喜びであり、感謝なことであるか。礼拝に連なっていることが、心安まるとともに、最高の喜びであるか、そのことを主イエスは、私たちにも問い掛けておられる。そして第一とすべきものを第一としているなら、日毎の必要は全て、天の父が必ず満たして下さる。主はそのように約束して下さったのである。

3、「だから、あすのための心配は無用です。・・・」(34節)19節以下の教えのまとめのように語られている。先のことを心配することなく、また地上の富に惑わされず、天の父の守りや豊かな養いに信頼するなら、明日のための心配は無用!思い煩うな!と、主は強い調子で語られた。心配しないでよいことで心配することのないように、弟子たちには、今日、今、神に生かされていることを感謝して、今日、果すべき務めを十分に果す者となるよう期待されたのである。先のことを考えなくてよいわけではない。十分に先を見通し、計画を立てることは大事である。神の守りを見失い、自分の力に頼ることが心配事の原因であって、神が日々の重荷を共に負って下さることを信じて歩むことが勧められているのである。(※詩篇68:19、55:22、イザヤ30:18)

 神と共に歩む日々を喜ぶこと、また神に従い、神のご支配の下にいることが大きな喜びとなる生き方は、どのように導かれるのであろうか。日常の些細なことで心配が膨らんだり、ちょっとしたことで不平や不満が募ったり、こんな自分は果した神の民と言えるのか、しばしば、そのような思いが心の内をよぎる。自己点検が迫られ、反省しきりである。しかし、その時にも、神が私たちをもご自身の民としていて下さることは揺るぎがない。既に神の民の幸いの中にある。自分を省みることによって、まず第一とすべきものを再確認させられているのである。反省して立ち返り、神の国とその義を第一に求めることに導かれているのである。これは自分でそのようにしようとしてできることではない。神が確かに導いて、私たちを御国の民として歩ませて下さる恵みである。

<結び> 私たちにとって大切なことは、今、私たちは神の民として、神のみ手の中にあること、神のご支配の下にあることを心から信じて喜ぶことである。そのような意味で、私にとって最も大切なものは、「神の国とその義」ですと心から告白したいものである。神は第一とすべきものと第一とするよう、いろいろな助けを与えて下さっている。主の日に公の礼拝を備え、週の半ばに祈り会を、その他にも様々の機会を備え、私たちの心を神に向けさせて下さる。それらは、神が恵みを私たち人間に注ぐため、神が備えて下さったものである。それゆえ、主の日の礼拝に連なる恵みは、私たちの理解を遥かに超えるものなのである。(※「恵みの外的手段」:ウ小教理問答 問88〜107)個人で祈ることも教会の交わりの中で祈ることも、神ご自身との交わりを喜び、神のご支配に服するのが私たちの大きな喜びとなるよう、神が招いて下さっていることに他ならない。神は私たちのため、常に最善をもって臨み、この地上で感謝の日々を過ごすよう導き、豊かに養っていて下さる。この神のご支配を喜び、この方に従うことを第一とする歩みを、一層確かにされたいものである。