礼拝説教要旨(2009.10.04)
野の草さえ
(マタイ 6:25〜30)
 「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(24節)主イエスが語られたこの言葉は、弟子たちに向かって、彼らが既に、神に仕える者とされていること、また、この世の富からは距離を置くことができる者となっていることの宣言でもあった。だから揺れ動くことなく、しっかりと立ちなさい。主は弟子たちを励ましておられたのである。

1、その励ましの教えは、「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか」と続いた。(25節)視点がずれる時、あるいは肝心なことを見失う時、心配しなくてよいことでうろたえ、心配がその人を押し潰すことになる。神に仕える者となった弟子たち、神の子とされた幸いな人たちにとって、神が生かして下さっている日々、その地上の生活における事柄の全ては、神のご支配とみ守りの下で営まれているもの、絶対的な守りの内にあるものなのである。

 日々の生活において、何を食べ、何を飲み、何を着ようかと、誰もが考えるのは当然である。その当然のことが心配や思い煩いのもとになるのは、「いのち」の捉え方に原因があるからである。いのちがどれ程大切なものであるのか、それはいのちが誰のものであるのかから始めて、しっかり問い直される必要のある事柄である。いのちは自分のもの、自分で何とかできるもの、自分で養うものと考えるなら、いのちの心配は尽きることなく、その人を襲うことになる。けれども、造り主がおられ、その神が人にいのちを与え、そのいのちを育み、支えておられることを知るなら、日々の生活の心配事から解き放たれる。神に生かされている人の歩みは、揺らぐことがないからである。

2、多くの人が神を認めず、神に生かされていると信じないとしても、弟子たちは神を信じる人々であった。その弟子たちに「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、・・・」と主は言われた。(26節)鳥たちが空を飛び回るのは、天の父の豊かな養いがあってのこと、そのことに気づきなさいと言われたのである。そして、その鳥たちよりも、「もっとすぐれたものではありませんか」と、神に生かされている人間の確かさ、素晴らしさを知りなさいと語られた。弟子たちには、自分を知ること、神がおられ、神によって生かされている自分がいると知ること、この理解こそが肝心であった。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(27節)

 主イエスは、空の鳥だけでなく、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。・・・」(28節)と語られた。ゆりに限らず、野の草花の時が来ると芽生え、育ち、やがて花が咲いて実を結ぶ、その行程の見事さを一言で言い表すことは難しい。しかし見れば見る程、その美しい装いに打たれるばかりである。「・・・栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」(29〜30節)神が野の草さえも、それは美しく装われたと知るなら、ご自身に似せて造られた人のために、どれ程の思いを込められたかを悟ることができるのである。

3、主は弟子たちに向かって、「信仰の薄い人たち」と告げておられた。どのような思いを込めて言われたのであろう。嘆かれたのか、それとも叱責を込めておられたのか。どんな口調であったのか。大声で言われたのか。嘆かれたのは確かで、叱責も込められていたに違いない。けれども、弟子たちの信仰の薄さ、小ささ、そして彼らの弱さも愚かさも、主がよくご存知のことであった。それ故に殊更に嘆くことではなく、彼らを思いやってこそ「信仰の薄い人たち」と、語り掛けておられたのである。もっともっと神を仰いでみなさい、目を天に向けるとともに、空の鳥を見なさい。また野のゆりを見なさい。よく見て、よく思いを巡らしてみなさい。神のみ業が満ち溢れているでしょうと。

 「見なさい」「わきまえなさい」と言うことによって、弟子たちに向かって、彼らが目にする、鳥や草花など自然界の営みを見て、よく考えなさい、よく観察してみなさいと、促しておられたのである。その上で神が人に対して、どれだけの恵みを注いで下さっているかを、よくよく考えてみなさいと言うのである。そうすることによって、神の測り知れない恵みと守りの内にあることを、弟子たちは悟ることができるのである。主は、弟子たちが狭く小さな視点で神を仰ぐのではなく、広く大きな視点で神を仰ぐことによって、もっと大きな確かな信仰に立つように、日々の生活の心配事によって押し潰されることのないように、全知全能の神を心から仰ぐようにと励ましておられたのである。真の神を仰ぐ信仰は、より深く知ることによって、より確かなもの、より豊かなものとされるからである。

<結び> 山上の説教を学ぶ私たちも、これらの教えがどのような意味合いで語られたのか、そして、どのように聞くべきなのか、それを踏まえることがとても大切である。「信仰の薄い人たち」と言われると、本当にその通りです、心配ばかりしている私をあわれんで下さいと、祈らずにはおられない。けれども、主イエスは、励ましを込めて、もっと神の力や助けを信じてみなさい、空の鳥や野の草さえ、豊かに養って下さる天の父がおられるでしょう。その父を信じなさい。その父を仰ぎなさいという励ましを込めて、「信仰の薄い人たち」と語っておられたのである。弟子たちの幸いは揺るがないことであった。そして、主イエスを信じる私たちの幸いも揺るがないものである。私たちは心配や思い煩いから解き放たれ、神の豊かな守りと養いを信じてこの地上の日々を生きるように、確かに招かれていることを心に刻みたいのである。