礼拝説教要旨(2009.09.27)
二人の主人に仕えることはできません
(マタイ 6:22〜24)
 この地上の生活は、天の父が生かして下さる日々であり、天の御国に繋がるもの、だから「自分の宝は、天にたくわえなさい」と、主イエスは語られた。また「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と、あなたの心は天を向いているか、天の故郷に帰ることを望み見て生きているかと、問いかけておられた。その一連の問いかけを更に続けるように、あなたの目は健全か、それとも目が悪く、心が曇っていることはないか・・・と語られた。

1、山上の教えのほとんど全ては、神が人の心の内を見ておられ、外側の見えることより、内側の見えないことを問うていると告げている。この地上の生活がどんなに現実的で、実際的であっても、何を見て、何を感じるのか、また何を聞いて、何を理解するのか、そのような内面の事柄がどれだけ大切か、キリストの弟子たちは、それを心に留めるよう求められていた。主は、「からだのあかりは目です。・・・」と言われた。(22〜23節)身体に備わった「目」を「あかり」にたとえ、目が澄んで健全なら、全身が明るく、その行動が滑らかで安全である。けれども、目が悪くて澄んでいないなら、その人の行動には危険が付きまとうと。

 「あかり」は暗がりを照らす光である。目から確かに光が差し込んで、進む道がはっきり見えているかどうか、その人の生き方が健全であるかどうかを問うておられた。見るべきものがはっきり見えているのか、見てもぼんやりしているのか。目の健全さとは、澄んだ目で真実を見分けているか否かを指している。目の前に倒れている人がいて、傍を通り過ぎてしまうのか、助けの手を差し伸べるのか、そのような咄嗟の判断は、目、すなわち心の目の健全さにかかっている。もし心が鈍く、曇っているなら、自分が何かをしなくても、誰かがするだろうと通り過ぎることになる。(※「物惜しみする」ことを、「目が悪い」と、そして「貪欲な人」を「目つきの悪い人」と表現し、「善意の人」を「目つきの良い人」と言う。箴言23:6、28:22、箴言22:9)

2、この地上で人と出会うこと、また様々な事柄に出合うこと、その時々に健全な目で見て、澄んだ心で判断できること、それがその人の歩みをどれだけ豊かなものにするのか、注意が促されているのである。地上のことに執着しているなら、そして自分のことが第一であるなら、天に宝をたくわえることはできず、もし目が曇っているなら、その暗さによって、その人の歩みは絶望する程の悲惨の中にあるとさえ言い切られている。物惜しみする心というものは、止まることがなく、どこまでも貪欲となり、暗さの中、滅びの淵にまで落ちても、まだ懲りることがないからである。主は、弟子たちに、よくよく注意していなさい、心して真実を見なさいと諭しておられたのである。

 キリストの弟子、すなわち神の民とされた幸いな人々であっても、この地上で生きる限りは、絶えず心を天に向け、神にのみ仕えることが何よりも大切である。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。」(24節)この教えを絶えず聞き直すことが必要である。けれども、神の民が地上で経験するのは、実は起こり得ないことで悩まされるという、厄介な事柄であった。ふたりの主人に仕えることは「できません」と、断言されているものの、実際には中途半端になって苦しむのである。主は「ふたりの主人に仕えてはいけません」とは言わず、「仕えることはできません」と語って、弟子たちが神に仕える人になっていること、その事実をはっきり悟ることを促しておられた。神に仕える者とされている事実、これこそが弟子たちの幸いだったのである。

3、もちろん、この世の富の惑わしの執拗さを無視すること、軽んじることはできない。実際に、神に仕えることと富に仕えることの間で揺れ動き、自分がどこに立っているのか、心もとないことがあるとしても、それでも主が言われたことは、あなたがたは神に仕える者とされているという、途方もない幸いについての宣言であった。もし弟子たちが、神にも仕え、富にも仕え、どちらも上手くやろうとしていたなら、それは彼らがまだキリストの弟子にはなっていないことになる。「あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えることはできません」とは、神に仕えている弟子たちが、同時に富にも仕えることはできませんと、その確かな事実を心に刻むことを教えて下さったのである。

 この地上で富の惑わしは強力である。神に仕えるのを止めさせるかのように、激しく迫られることがある。現実の生活を滞りなく営むために、経済的な必要を満たさねばならず、将来のために備えることも大切である。時には目の前の必要のため、神か富かの選択が圧し掛かる。主イエスは、宝を天にたくわえるのか、それとも地上にたくわえるのか、また神か富かと問うておられるが、いずれも、あなたがたは既に神に仕える者となっていること、天に宝をたくわえる人であることを知っていなさいと、語っておられたのである。どんなに強力な誘惑であろうと、神の民とされたからには、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えることはできません。」この事実は、弟子たちにとって、途方もない幸いだったのである。もう既に安全な神の手の中にあることを知るなら、どんなにか安んじることができるからである。

<結び> 私たちは、現実には自分が神か富かで迷っていたり、富に惑わされていることがある。富の惑わしに負けていると嘆くことが多いかもしれない。残念ながら、過去の教会の歴史において、また現在も、神にも仕え、富にも仕えることが可能とばかり、この世での祝福を求める過ちが繰り返されている。それは、教会とは名ばかりの教会のなしていることかもしれない。しかし私たちは、自分勝手に神も富もと主張することなく、「ふたりの主人に仕えることはできません」との主イエスの言葉を確かに聞き、神にのみ仕える者とされている幸いを感謝し、キリストの弟子としての歩みを続けたい。健全な目をもって、目の前の事柄を見分け、相応しい行いが導かれることを願いたい。神に仕え、心の内を見ておられる神が私たちに望んでおられることを行い、天の御国こそ、帰るべき故郷と仰ぎ望む者ならせていただきたいのである。