この年の始めに、同じ聖書個所から、「天に宝をたくわえなさい」との説教題にて学んだ。この地上の日々は、二度とない時であることを覚え、「神が私たちを生かして下さり、用いて下さる日々である」ことを悟り、「その地上の日々において、神のおられる天に宝をたくわえる生き方、心を神に向けて、やがて天の御国に迎え入れられる日を待ち望んで生きることをしっかりと導かれたい。天の御国に繋がる地上の生涯であることを、この年の始めにはっきりと覚えておきたい」と。その後、山上の説教を学び続け、再びこの個所が導かれた。もう一度心の耳を傾けてみたい。(※以前と重なることがあるが)
1、山上の説教は、キリストを救い主と信じる神の民にとって、大切な教えの一つである。神の民だからこそ、そのようにできる指針、神の民の幸い、天の御国の民とされた者の幸いが明らかにされている。人の目を気にして上辺を取り繕うのではなく、心を見ておられる神の前に義とされ、善しとされること、それが肝心なことであり、その具体例が6章1節以下の教えであった。神に義とされる善い行いが、人の目には隠れているということ、この原理原則をよくよく覚えて生きることが、神の民、キリストの弟子たちに求められている。実際どんなに隠れようとしても、地上の生活は隠れようがないからである。
そこで主イエスは、隠れようのない地上の生活における注意事項を、そのものずばり語られた。先ずは「宝」に関して、そして日々の「心配」、思い煩いについての教えである。何を一番大切にしているのか、何が自分にとって大事なのかという問題は、神の民であっても、折に触れて問い直されることが必要である。地上の生活は現実的で、直接的に迫ってくることだからである。目の前にある課題をどのように処理するのか、確かにお腹がすい人を前にして、そのまま去らせることはできない。いつもいつも、自分のことだけでなく、周りの人のことも考えながら生きる現実が、必ずあるからである。
2、「宝」に関すること、それに対する態度について、「たくわえる」という視点から語られた。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい」と、また「自分の宝は、天にたくわえなさい」と、宝はどこにたくわえるかを明言された。「宝」というと、誰もが金品を思うかもしれない。しかし、お金や品物だけが宝となるわけではない。そうなら宝をたくわえるのは金持ちだけのこととなる。主が語られたのは、人なら誰もが持っている「宝」、その人にとって決して譲れないもの、大切なものとなっている「宝」のことである。金品などの資産、苦労などの経験、特別の才能など、自分の心から切り離せなくなっている大切なものはみな、ここで言う「宝」なのである。(19〜20節)
自分の心がそれに執着するものを、地上にたくわえることなく、天にたくわえなさいと主は言われた。折角の宝も、地上では「虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。」けれども、天では「虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」この地上と天では、絶対的な違いがある。地上のことは必ず過ぎ去り、はかなく消え去るのに対して、天のことは決して過ぎ去ることはない。主イエスは、そのことを弟子たちに告げておられた。この地上のことに心を集中させ過ぎて、それを拠り所とするなら、地上にたくわえた宝は、一瞬の内に消え去る時が来るの忘れてはならなず、天に心を向け、天にたくわえた宝だけがいつまでも残るのである。(※マタイ24:35)
3、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」主は、「あなたの心はどこにあるのか」と問うておられた。あなたの心は天を向いていますか、それとも地上を向いていますか。あなたが大切にしているのは天ですか、それとも地上ですか。あなたの宝のあるは天ですか、地上ですか。天の御国の民となってからも、弟子たちは地上のことから、決して無関係に生きられるわけではなかった。だからと言って、善い行いを積み上げるなら、天に宝を積むことになるのかというと、そうでではない。ともするとそのように考えてしまう。あくまでも天の御国こそが、自分の行くべき所、帰るべき故郷との思いで今を生きること、そのことを主イエスは語られたのである。(21節)
神がおられることを認め、神を信じ、神が遣わされた救い主キリストを信じ、やがて天の御国に迎え入れられると信じて今を生きること、それが自分にとって一番大切なことと気づいているのか、そのことを「宝」として生きているのか。そうした一つ一つのことを問うように、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と語っておられた。「あなたの宝のあるところはどこですか」と。「私には宝はありません」と答えるのだろうか。それとも「私の宝は・・・」と口ごもるのだろうか。「私の宝は天にあります!」と胸を張って言うとすると、それも背伸びしているかのようである。「天に宝をたくわえる者とならせて下さい」と祈るのが、弟子たちに相応しいことであった。弟子たちにとって地上での全ては、天の故郷に帰るための貴重な旅なのである。
<結び> この地上では旅人であると認めること、それが天の御国の民にとって大きな力となる。このことを忘れると、日々の生活の中で、あれこれと悩みや苦しみが付きまとう。心が二つに引き裂かれ、揺れ動き、時に怖じ惑うことになる。信仰の父と呼ばれるアブラハムは、その地上の生涯において、「天の故郷にあこがれていた」と記されている。約束のものを手に入れていなくても、「はるかにそれを見て喜び迎え」ていたとも記されている。(ヘブル11:13〜16) 私たちもまた天の御国の民であるとの自覚こそ、今再確認すべき大切なことである。この地上が私たちにとって第一の所なのか、それとも天の御国が第一の所なのか。確かな故郷があるからこそ、今この地上の生涯を生き抜くことを導かれたいのである。(ピリピ3:20)
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