礼拝説教要旨(2009.09.06)
断食するときには
(マタイ 6:16〜18)
 「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(5:20)しかし、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(6:1)主イエスはこのように語って、義を追い求めて生きたとしても、人に見られたくてする善行は、天の父によって報われることはないと、厳しく戒められた。「施し」も「祈り」も、周りに悪い見本があったからである。そして、「断食」についても、よくよく注意しなさいと語られた。

1、神の子として生きる者にとって、「施し」は「対人」に関わること、「祈り」は「対神」に関わること、そして、「断食」は「対自」に関わることである。何れにおいても、正しい心と正しい態度が求めれているのは十分に分っていても、つい心を許すと、知らない間に誤りに陥るというのが、この世で生きる弟子たちの現実であった。施しにおいて注意すべきこと、祈りにおいて心すべきこと、それは、「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」との約束である。その約束は「断食」においても同じである。「隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」(18節)信仰生活において大切なことは、父なる神の前に生きていることを決して忘れないことなのである。

 「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。・・・」(16節)人が「断食」をするのはどのような時であろうか。お腹を壊して食事を断つとか、大きな悲しみに遭って食べ物を受け付けなくなることがある。そして、特別な願い事のため祈りに専念しようと断食することがある。実際に聖書の中に、ダビデが自分の子が死にそうになった時、「その子のために神に願い求め、断食」したことが記されている。(Uサムエル12:16、※詩篇35:13) その他、旧約聖書には神の民にとって、義務として行うべき断食が定められていた。年に一度の「贖罪の日」に「身を戒める」ことを求められ、訓練としての断食が命じられていたのである。(レビ23:26〜32)

2、「断食するときには・・・」と語られた時、主は、多くの人々によって行われていた、訓練としての断食に触れておられたのである。当時の熱心なユダヤ人は、贖罪の日の断食の他、年に何度かの断食、更には週に何度かの断食という程に、熱心さを競うかのようになっていた。彼らは自分を訓練していることを人に見せようとしていたのである。(※ルカ18:12 パリサイ人は、「週に二度断食し」と祈った。)もし弟子たちが、自分を訓練するため、また何かの目的をもって祈るために断食をするなら、当時の人々と同じようにするのではなく、ただ神の前に真実な思いで、それをしなさい、決して人に見せるためにしないように、と命じておられたのである。

 もし断食するなら、断食していることが決して分らないようにしなさい、そうでないなら、断食するのは止めなさいと。(17〜18節)もし人に見られたいなら、そして人からの評価を求めているなら、施しも祈りも、また断食も、それらは神から報いを受けることはできない。人から報いを得た時点で、既に報いを受けているからである。神の子とされた者、キリストの弟子となった者は、どこを向いて生きているのか、何を求め、何を一番大切と考えて歩んでいるのか、そのことを主は問うておられる。目の前にいる人々の評価を気にしているのか、それとも目には見えない、天の父に見ていただくことを望んで生きているのか、その違いこそが最も大事なことである。

3、ところで今日の私たちの信仰生活においては、自己訓練という意味でも、また特別の課題のためでも、断食は余り経験のないことである。もちろん、祈りのために食事を抜く・・・ということは、人によってあるかもしれない。けれども、祈るために断食しましたと告白することも、断食して一緒に祈りましょうと呼びかけることも主は勧めてはおられないので、むしろ実態は不明というのが正しいであろう。それぞれが、必要に迫られ、聖霊に導かれて断食することがあるなら、その時、「断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられる」父に見られるため、そして「隠れた所で見ておられる」父に報いられるため、人には知られないようにすることが肝心なのである。

 自分を訓練するということでの断食は、施しや祈りに比べて、特に隠れていることが求められている。「天にいます私たちの父よ」と祈り、「私たちを試みに合わせないで・・・」と願う時、その祈りをささげる一人一人が、天の父の前にただ一人で立っている。施しをする時は、その施しを周りの人が知っても、自分をどのように見るかを気にしてはならないのである。ところが断食の場合は、断食しているかどうかも人に知られないようにと言われる。何れも隠れていることが求められているが、自分はこんなにもがんばっている・・・と人に知られたくなる断食は、より隠れているようにと主は言われたのである。

<結び> 施しも祈りも、そして断食も隠れていること、それが主イエスの教えである。隠れた所で見ておられる、天の父からの報いだけが、神の子たち、キリストの弟子たちの望みであり喜びである。ゆめゆめ人からの報いで満足し、天からの報いに漏れることないように。そうと分っていても思い違いをし易いのが私たち人間である。天の父が見ていて下さることで満足できず、今、目の前の人に見ていて欲しいと願っている。自分が目覚めて祈り始めると、一緒に祈らない人がいることに気づいたり、皆で一つのことに取り組み始めると、そこに加わっていない人がいることに気づく。しかし、肝心なことは天の父の報いだけを求め、天の父に見られていることを喜ぶ信仰である。父に任せて安らぐこと、それが肝心な生き方なのである。

 それでは一人一人バラバラではないか、そんなバラバラの交わりは味気ないと、反論が聞こえてきそうである。それでも天の父からの報いだけを望む弟子となりなさい、そのような地上の歩みを続けなさいと、主は教えておられるのである。この世で報われることがなくても、私たちは主イエスの弟子として、天を仰いで歩みたいのである。