礼拝説教要旨(2009.08.30)
平和をつくる者として生きるために
(マタイ 6:14〜15)
 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)このみ言葉を8月の暗唱聖句として掲げたが、私たちは折に触れて「平和」を心に留め、「平和をつくる者」の幸いを感謝して歩んだであろうか。また何よりも、「神の子どもと呼ばれる」ことの幸いを再確認することができただろうか。今朝はそのようなことに思いを巡らせながら、「主の祈り」に付け加えられるように語られている教えに、今一度耳を傾けてみたい。主イエスは何を教えようとされたのであろうか。

1、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(12節)このように祈ることは、「主の祈り」の中で一番祈り難い・・・ということについて前回に触れた。人を赦すことの難しさは誰もが認めることであり、赦せない自分を思い知らされているのが私たちの現実である。だからこそ赦された者が赦す者になるよう、主は弟子たちに諭しておられたのである。そのことを一層明確にするために14〜15節が語られている。けれどもそれだけではなかった。赦すべき「罪」と赦された「負いめ」との間には、途方もない開きがあり、到底赦される筈もない「負いめ」を赦されていながら、ちょっとした悪に過ぎない「罪」を赦せないとするなら、それがどれ程のことなのか、気づかせようとされたのである。

 すなわちこの二節は、「主の祈り」に付け加えられるように語られていながら、12節に関連するだけでなく、「主の祈り」の全体、そして「山上の説教」の全体に大きく関連する教えとして語られているのである。主イエス・キリストの弟子として生きることは、どんなにか大きい幸いの中に入れられているのか、神の子とされる幸いはどれ程の恵みであるのかを、いささかも忘れてはならない。神の子とされた者は、自分の罪を悔い改め、その払いきれない負いめを赦された者である。罪の代価は、神の御子が身代わりとなって支払って下さったからである。この幸いの根拠を忘れたり、見失って歩むとするなら、それはキリストの弟子としての根拠を自分で放棄することになるのである。

2、「私たちの負いめをお赦しください・・・」と祈りつつ、私たちは神の赦しを心から信じていることを告白するのである。神が赦して下さること、赦して下さったことを信じないまま、「お赦しください・・・」と祈ることは有り得ない。神の赦しとあわれみ、そして豊かな恵みを信じ、感謝を込めて赦しを祈り求める者は、自ずと他の人を赦す者、赦せる者となるのである。もし神の赦しを疑い、確信も感謝もないなら、赦しを祈り求めることはできず、当然のように人を赦すことなど思いも及ばないこととなる。祈っていても、その祈りは見せかけのもの、神に祈るのではなく、人に見せるだけの行為、単なる「パフォーマンス」に過ぎないものとなるのである。

 祈りが本物であるのか、また信仰が本物であるのかは、極めて単純でいながら、実際には生易しくはない。主イエスはそのことを十分知っておられた。それでこの二節を語られたのに違いない。同じ教えを度々繰り返しておられるからである。神の赦しを信じないまま、どんな祈りも空しい繰言となるしかなく、赦された者として生きるのでないなら、神からの赦しを否定することになるのである。(マルコ11:25、マタイ18:21〜35)それ程に私たちの人間の心は鈍いと、主は注意を促しておられる。一人で祈るよりも二人で、また二人より三人で祈り、(マタイ18:19〜20)「天にいます私たちの父よ」と呼び、そして「私たちの負いめをお赦しください」と祈るように教えておられるのである。

3、この二節と「山上の説教」の全体との関わりについても、やはり神の赦しの恵みをどれだけ理解しているか、どれだけ信じて実際の生き方に反映されているかが問われている。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」と言われたことは、「もし人の罪を赦すなら・・・」と「しかし、人を赦さないなら・・・」と言われていることに通じている。赦された者が赦す者になる、赦す者に変えられる、それは神が聖霊の働きによって成し遂げて下さることがなければ、決して起り得ないことである。その有り得ないこと、起り得ないことを神は成し、罪を赦された神の子たちを世に送り出しておられる。私たちはその神の子の一人とされているのである。何と幸いなことか。

 私たちが心に留めるべきことは、神の子とされた幸いを感謝して、その神の子たちに託された務めを果すことである。「赦し」とより深く繋がっているのが、「平和をつくる者」としての生き方である。人を赦せるか赦せないか、それは単純なことではないが、自分が赦されたことを心に留め、その上で周りの人々のことを考えるのかどうか、そのことにかかっている。赦し合うことを望んでいるのか、そして平和をつくることに喜びを見出しているのか、それは日々の生活の中で、私たちが何を考え、どのように周りの人と接しているのか、それら全てのことに関連してくる。神が私の罪を、神のひとり子キリストの十字架で赦し、その赦しに相応しい者として生きるように願っておられるとするなら、何とかして神の子として、平和をつくる者として歩ませていただきたいのである。(※エペソ4:32、ヤコブ3:17〜18)

<結び> 私たちの心が大いに砕かれているか、柔らかくされているか、そんな一つ一つのことが大切である。天の御国の民の幸いの一つ一つが結びついている。神は私たちが心を低くして生きることを望んでおられる。そしてこの世に、本当に心を低くする人を送り出そうとしておられる。(※総選挙を迎えて、真に公に仕える人こそが求められるのは言うまでもない。)キリストの弟子となった私たち、たましいの救いを与えられた私たちが、心を低くしてこの世で生きること、それが天の父が私たちに求めておられることである。その一つの務めである「平和をつくる者」として生きることを、赦しを与えられた者として、人を赦す者として歩むことによって導かれたいのである。

 ※国と国の関係について、「国益」や「安全保障」を主張し、激しい言葉が目立つこの頃である。キリスト教会とそこに連なる一人一人が「平和をつくる者」として生きることがないなら、果たしてその存在の意味があるのだろうか・・・という位に、何か危機感を覚えてしまう。争いを止めること、平和をつくること、それが主イエスのみ思いではないか・・・と。