礼拝説教要旨(2009.08.09)
主の祈り<3>
(マタイ 6:9〜15)
 「天にいます私たちの父よ」との呼び掛けで始まる「主の祈り」の前半は、神ご自身のことを祈るよう教えていた。「御名」「御国」そして「みこころ」のことを先ず祈るのは、天の父を神として心からあがめる者が祈ってこそ、祈りは神に届くものだからである。そのようにして祈る祈りの後半は、祈り手の切実な願いである。この地上にあって、人は現実の生活において多くの欠けや弱さがあり、神の助けを呼ぶ祈りは自然と口から出るものである。それがどれだけ真剣であるか、主イエスは三つの祈るべきことを教えて下さった。

1、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」(11節 ※文語訳「我らの日用の糧」)これは率直に「日々のパン」について、「きょうもお与えください」と祈る祈りである。神の民の祈りは、単なる願望を申し上げることでもなく、心が満たされればそれで良いというものでもない。人が今日生きるための具体的必要を神に求めること、それが神の民の祈りという一面が明らかされている。人が求め願う先から、その人の必要を知っておらる父なる神に「日ごとの糧を・・」と祈るのは、祈り手の生活の全ては、どんなに小さなことに至るまで、神の助けと支え、そして満たしなしには成り立たないことを認めることである。主イエスは弟子たちに、それ程の思いと信頼をもって祈るようにと教えておられたのである。

 「日ごとの」という言葉は、余り使われない珍しいもので、そのためにいろいろな解釈がなされている。「今日の」とも「明日の」とも考えられ、「必要の」とも訳され、その日その日に必要なものを意味している。人が生きていることに関して、一日一日の大切さを心に刻み、その日その日に必要な糧を神によって満たされて生きること、神が人を生かして下さっていることを感謝することを、この祈りは教えている。多くの世の人々は、自分の力で生きていることを誇り、必要は自分で手に入れると豪語しているとしても、神の民は、誰一人自分の力だけで生きることはできず、神のみ手の守りの中で生かされていることを知っている。だからこそ、心を低くして、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈るのである。

2、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(12節)主の祈りの中で一番祈りにくいのはこれ・・・と言う人が多い。「私たちの負いめをお赦しください」と祈ることはできても、「私たちに負いめのある人たちを赦しました」とは、決して言えない自分を知っているからである。私たち人間はそれ程に不完全であり、また不真実である。主の祈りの前半で先ず神のために祈ったとしても、実際の生活では尚自己中心であり、自分の思いを優先することを繰り返している。だからこそ、祈る度に「私たちの負いめをお赦しください」と祈ること、そう祈らずを得ない自分を認めなければならないのである。

 もちろん、「私たちに負いめのある人たちを赦しました」、だから「私たちの負いめをお赦しください」と祈るのではない。「負いめ」すなわち「罪」は、自分では処理できないもの、決して返しきれない負債である。十字架で代価を支払い、罪を贖って下さった主イエス・キリストと信じる者だけが「私たちの負いめをお赦しください」と祈ることができる。そして、「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」と祈りつつ、私たちに負いめのある人たちを赦す者に造り変えて下さいと祈るのである。神に赦された者として、人を赦す者にして下さいと。(エペソ4:32)この祈りは、キリストを信じて罪を赦されて初めて祈れるものである。もし徒に自分の弱さや愚かさを赦して下さい、何とかして下さいと祈るだけなら、その祈りは空しいものでしかない。

3、祈り手自身に関して祈るべき最後は、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」という祈りである。(13節)地上の信仰の歩みに「試練」はつきものである。そして信仰の試練は、当座は喜ばしく思えなくても、訓練として耐え忍ぶ者に「平安な義の実を結ばせます」(ヘブル12:5〜11、ヤコブ1:12)と告げられている。それでも主は、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈るように勧められた。主は私たちの人間の弱さを十分に知っておられる。悪に誘う試みからは十二分に守られるべき者、それがキリストの弟子たちである。時に強がり、試みも恐れない!と胸を張ろうとする。しかし、ペテロの経験を思い出す。日々にこの祈りをささげて歩むこと、その尊さを主はご存知なのである。

 祈り手自身に関する三つの祈りは、日々の生活における無力さを認めること、神の前に負いめのあることを自覚すること、そして試みに耐え得ない自分を認めることなど、神の前に徹底的に遜ることを求める祈りである。心を低くする者に神は手を差し伸べ、豊かに養い、赦しを与え、安全な道を備えておられることを教えている。父なる神を心から信じる時、この祈りを真心から祈ることが導かれる。最初に教えられた弟子たち、そして世々の聖徒たちはこの祈りを祈り続け、祈りが聞かれることを経験し、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」との頌栄を、賛美し続けることになった。(※古い写本にはない。また2世紀初めに、この頌栄が記されている記録がある。)祈りを聞いて下さる神がおられること、その神を父と呼んで祈るように主イエスが教えて下さっていること、それが今日の私たちにも大きな望みとなり、慰めとなっているのが「主の祈り」である。

<結び> 「主の祈り」に付け加えるように、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しにはなりません」と、主イエスは語られた。(14〜15節)明らかに第五の祈りの内容と関連している。けれども、ここでの「罪」は「負いめ」と言われる「罪」よりは軽いものである。自分では返しきれない「負いめ」としての「罪」を赦された者が、それよりは軽い悪しき行いとしての「罪」「あやまち」を赦すかどうかが問われている。天の神に「私たちの父よ」と祈る者は、いつも自分のことだけでなく隣人を心に留めることが求められている。「私の日ごとの糧」ではなく、「私たちの日ごとの糧」を神に祈るよう教えられている。神に祈るなら、神によって赦された者として、周りにいる人々との関わりの中で、互いに赦し合う者として生きるように、主イエスは諭しておられるのである。

 祈りが単なる決まり文句にならないように、信じてもいないことを祈らないように、できもせず、またそうしようともしないことを上辺だけで祈ることのないように、主はそのことを大事にしておられた。主イエスをキリストと信じる者は、キリストが十字架で死なれたことが誰のためであったか知っている。信じる私たちの罪、返しきれない「負いめ」である「罪」を赦すために、キリストは十字架で死なれたのである。私たちの罪を赦すために注がれた、父なる神の恵みとあわれみは、それこそ底なしである。その恵みとあわれみを見失うことなく、また空しくすることなく、神の民の交わりの中で「主の祈り」を祈り続けることを導かれたい。(※「私」が赦されたことを知り、その上で「私たち」と祈ることの大切さを忘れないように!)