礼拝説教要旨(2009.08.02) =洗礼式あり=
主の祈り<2>
(マタイ 6:9〜13)
 「だから、こう祈りなさい」と主イエスが教えて下さった祈りは、「天にいます私たちの父よ」と、父なる神に親しく呼び掛けるよう勧める祈りである。神の民とされたキリストの弟子たちは、全知にして全能なる神を「私たちの父」と呼ぶことのできる、そして、その父を信頼して祈ることのできる幸いな者たちである。祈るべきことは、大きく分けて二つ、前半の三つが神ご自身に関すること、そして後半の三つが祈る側の人に関することである。祈りにおいて、先ず神に心を向けるのは当然としても、実際には神を忘れて祈る人の愚かさを、主は見透かしておられるかのようである。

1、「御名があがめられますように。」これが第一に祈るべきことである。父なる神が真の神であられることを誰もが認め、疑うことなく、また迷うことなく、あなたの前にひれ伏しますようにと祈るのである。「御名」とは「神ご自身」のことを指し、神が神として「あがめられますように」と祈る。「あがめる」とは、「聖とする」「聖なるものとして他のものと区別する」意味がある。正しく神が聖なる方であるなら、神だけが聖なる方として認められますようにと、祈る者自身が、神の前に全く遜り、ひれ伏しますと祈ることが肝心となる。その上で全ての人により、また全地に遍く神が神としてあがめられるようにと祈ること、それがこの第一の祈りである。

 祈りは当然のように神に向けられているとしても、実際には祈り手自身がぼんやりしていたり、単なる決まり事として祈っていることがある。現実に、神の民自身が神の御名を汚し、神に頼ることを見失って歩んだことがしばしばであった。祈るその人自身が神を神としてあがめているかどうか、神が聖なる方であるなら、祈る人自身が聖なる神を信じて、その神に全幅の信頼を寄せているかどうかは、何よりも大事となる。その意味で、先ず祈るべきことは、祈る人自身を含めて、神が神としてあがめられますようにであり、祈り手自身が心から、「あなたをあがめます」との思いを込めることが求められている。

2、次に祈るべきことは、「御国が来ますように」である。「御国」とは「神の国」のこと、神が支配すること、神が王として支配される国のことを指す。その意味で「神の国」は、罪を悔い改め、神を信じ、神に従う者となった人々の心の中にあると、主イエスは明言された。(ルカ17:20、21)主は、それと同じ意味での「御国が来ますように」と祈ることとともに、「御国」の完成の時があることを踏まえ、神のご支配の確かな実現を祈るように教えられた。人の心の中に来る神の国と、やがて完成する神の国、この二つの「御国」の到来を心から祈るのがこの祈りである。そこには祈り手自身が、神のご支配を喜んでいることが問われている。喜ばしい神のご支配が自分だけでなく、他の人々の上にも実現すること、そして終りの日の完成を待ち望むのである。

 二つの意味での御国の到来は、神を信じる者にとって決してバラバラのものではない。自分の心の中に神のご支配が行き渡るので、そこに測り知れない平安が満ち溢れ、喜びがあり感謝が溢れる。そして、やがて終りの日に「新しい天と新しい地が」実現するのを、いよいよ心待ちすることになる。今のこの時代の悪が滅ぼされ、義の住む世界が到来する、その確かな望みのある時、人は将来に向かって生きて行ける。神の民は、神の約束を信じるからこそ祈るのであり、心に神のご支配を得て安らぐからこそ、望みを抱いて祈り続けることができる。神のご支配が遍く実現することの望みは、この世がどんなに暗く荒んだとしても、人に生きる勇気と希望を与えてくれるものである。神を待ち望む者は必ず力を得て、立ち上がることができる。(※ペテロ第二3:10〜13)

3、神ご自身に関して祈るべき第三は、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」という祈りである。御名があがめられること、御国が来ること、このどちらにおいても、天におけることと地におけることとが同時に思い巡らされている。それがこの第三の祈りにおいては、一層明確に意識されている。神のおられる天において、神の「みこころ」は完全に実行されている。それと同じように「みこころが・・・地でも行われますように」と祈るのである。神の民は、ただぼんやりと理想を思い巡らし、「こうなったらいいなー」と祈っているのではない。いつまでたっても実現しない、単なる理想を追い求めているわけではない。「みこころが・・・地でも行われますように」とは、神の完全さを信じて祈る祈りそのものである。

 祈りは確かに願いであり、人が神に求めることである。そのために願うことや求めることが中心となって、地上ではまだ実現していないことを祈るのが中心となり易い。うっかりすると、祈りの答えは期待しないまま祈ることにもなる。単なる願望だけをただ神に申し上げているからである。けれども、天においては、神のみこころが余すところなく実現していると知るなら、みこころに叶って祈り、心から願うなら、その祈りは必ず聞かれることを悟らされる。祈りとはそういうものであることを、このように祈ることを通して気づかせようと、主はなさったのある。祈っても神は聞いて下さらない・・・とあきらめ易い者たちに、天においては神のみこころが行われていることを知りなさいと。

<結び> 「天にいます私たちの父よ」との呼び掛けで始まる「主の祈り」は、先ずは神ご自身のことを祈るように教えている。「御名」「御国」そして「みこころ」のことを祈りなさいと。祈りは人が神に向かって、神の出動を要請することに他ならないとしても、祈り手が本気で神を信じているかどうか、神を信頼して神に祈っているかどうか、そのことを主イエスは問うておられる。神に関する三つの祈りを心の底から祈ること、それが真実な祈りの出発であることを心に刻みたい。天の父を神として心からあがめている者が祈ってこそ、祈りは神に届くものである。神のご支配を信じて喜び、神のみこころが地においてもなることを信じて祈り続ける者に成らせていただきたい!

 今朝のこの礼拝に洗礼式が備えられていること、それは「御名」があがめられることであり、「御国」そのものの到来であって、「みこころ」が天で行われるように、この地で実現していることである。祈りは聞かれ、神の御業が成っている、その現場に私たちは居るのである。何という幸い、何という喜びであろう。受洗者一人だけでなく、ここに居合わせる全ての者が神のご臨在のもと、神の恵みのみ手の中で、喜びと感謝をいただいているのである。