礼拝説教要旨(2009.07.26)        
主の祈り<1>
(マタイ 6:9〜13)
 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」(1節)と語られた主は、弟子たちに向かって、信仰による義なる行いであっても、神を忘れ、人を意識する誤りに陥ることがあると注意を促しておられた。「施し」しかり、「祈り」しかりである。祈るときには、神の子たちの必要を知っておられる父がおられること、その父を信じて祈りなさい、「だから、こう祈りなさい」と、主イエスは弟子たちに祈りを教えておられたのである。

1、「天にいます私たちの父よ」との呼び掛けで始まる「主の祈り」は、主イエスが祈られた祈りではなく、「こう祈りなさい」と、主が弟子たちに教えて下さった祈りである。神によって造られた人間に、生まれながらにして祈り心があるのは確かである。けれども、神に背いて堕落したため、生まれながらの祈り心だけでは正しく祈れない、という事実もまた否定できない。すなわち、祈りを教えられたり、訓練されることが必要なのである。弟子たち自身が、「私たちにも祈りを教えてください」と主に願い、「こう言いなさい」と教えていただいたのも、この祈りとほぼ同じ祈りであった。(ルカ11:1以下)主は弟子たちに、折々にこのように祈りなさいと教えておられたのである。

 先ず呼び掛けにおいて、神を親しく「父」と呼ぶことについて、神を信じる者にとって、神は遠くにいる方ではないこと、幼子が恐れなく近づくことのできる方であることを前回に触れた。子の最善を知っておられ、子のために最善を成そうと見守っておられる方、それが生きておられる真の神である。この神に向かって、「私たちの父」と呼ぶように主は言われる。最善を成して下さる方を、「私」一人で独り占めせず、「私たちの」と呼びかける視点を教えておられる。もちろん、神をぼんやりと思い巡らすのではなく、「私の神」「私の父」とはっきりと意識することが大切である。けれども、「私の父」と呼ぶのではなく、「私たちの父」と呼んで神に祈ること、これが主イエスを信じる者の祈りと主は言われた。神を父と呼ぶ者は自分だけではない、神の子たちが周りにもいることを、決して忘れてはならないからである。

2、確かに祈りは、神との親しい交わりであり、その交わりに誰かを入り込ませてはならなかった。「祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて」と命じられていた。(6節)けれども、祈る人間の側の不完全さや愚かさは、しばしば自分のことばかりに執着し、祈りにおいても自己中心となり、自分の問題解決だけを求めてしまうものである。実際に私たちは、何かの問題にぶつかって初めて自分の弱さや足りなさを知り、いよいよ真剣に祈る者となる。そして「主よ。答えて下さい」と祈るのであるが、その時「私たちの父よ」と呼ぶなら、神がご自身の民にいつも答えて、最善を成して下さったことを信じて呼び掛けることになる。神は決して私一人の神ではなく、神の民であり、神の子である全ての者の父であられるからである。

 主イエスは祈りにおける一人よがりや、自己中心を避けるようにと教えておられたのである。すなわち、一人で祈ることがどれ程大切であっても、一人だけでは祈れないことを教えておられる。主イエス・キリストに従おうとする者は、神を「私の神」「私の父」と心から信じて告白することと、神を「私たちの父」と呼んで祈る、祈りの交わりの中で歩むことが求められている。主の日に公の礼拝に連なることの他、週日には祈り会や諸集会など、み言葉と祈りの集いが様々備えられているのは、礼拝するにも祈るにも、「私たちの父」なる神に共に近づくためである。教会がキリストのからだであると例えられるのは、それぞれが単独では存在し得ないことを示すためである。だから祈りにおいても、神に向かって「私たちの父よ」と呼ぶのである。

3、主はまた、「私たちの父」は「天にいます」と言われた。神は天におられる方、地にある父とは違う方である。このように言うことによって、この地上の父しか知らない者に、天におられる完全な方、ご自分の子たちには全く平等で、分け隔てのない父がおられることを示されたのである。子たちの必要に関して、正しく知っていおられ、子たちの最善を成そうと見守っておられる方、それが天の父である。私たち人間は、自分の経験でしか物事を理解できないという限界がある。そのために神を父として親しく呼ぶことができない程、良い父親像の思い浮かばない者がいるかもしれない。そのような者にこそ、祈る時には「天にいます私たちの父よ」と、神が天におられる確かな方、完全な父との思いを抱いて祈るように導いて下さるのである。

 このようにして、何事も地上のことに心を奪われ、目の前のことにしか思いの及ばない者に、心を天に向け、そこにおられる全き方、愛に富む父にこそ祈りなさいと、主はこの祈りを教えて下さった。天におられる父こそ、聖にして義なる方、完全な愛に満ちている神、全てを知り、全てを成し得る全能なる神である。地にある者は有限にして、不完全な者、弱さと愚かさの故に、目の前の困難に打ちのめされるばかりである。しかし、全き神を待ち望む者は新たな力を得て、立ち上がることができる。自分の弱さや愚かさを知れば知る程、いよいよ神に祈り、神の力が現されることを祈り求めるようになる。そのような祈りの勧めが、この呼び掛けの言葉に込められている。(※イザヤ 40:28〜31)

<結び> 「天にいます私たちの父よ」との呼び掛けには、このように多くの意味が含まれている。私たちは単純に、「天のお父さま」と呼び掛けることがある。どのように呼び掛けていても、私たちの祈りを天の父が聞いていて下さること、これこそが驚きであり、感謝である。私たちも主イエスを信じて、神を父と呼ぶ幸いに導き入れられているのである。私たちの必要を知っておられる方、私たちに最善を成そうを見守っていて下さる父なる神に祈れるのは何と幸いなことか。主イエスが教えて下さった祈りを祈るにしても、また自分の言葉で祈るにしても、「天にいます私たちの父よ」と呼ぶ幸いを心に刻んで、信じて祈り続ける者と成らせていただきたいものである。