「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」(5:20)と語られた主は、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」(1節)と語られた。弟子たちがこの世で生きる時の、具体的な態度について注意を促しておられた。信仰による義なる行いであっても、神を忘れ、人を意識する誤りに陥るからである。「施し」の次に取り上げられたのは「祈り」であった。本来、神に向かう筈の祈りさえも落し穴があるのは驚きである。
1、「また、祈るときには、偽善者のようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。・・・」(5節)注意しなければならないのは、祈るとき、神だけに向いているのか、それとも周りの人を意識して、「人に見られたくて」あるいは「人に見せようとして」祈っているのか、ということである。「偽善者たち」とは、ここでも律法学者やパリサイ人たちのことであって、当時のユダヤ人の指導者たちは、会堂で祈ることや、通りの四つ角など人に見られる場所で祈ることに心を配っていた。祈りの流暢さなどを含め、祈り深い人との評判を得ることが何よりの目的となっていたのである。(※ルカ18:9〜14)
そのような祈りは、施しと同様、人からの報いを受けた時点で、神からの報いを失うのである。主は「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(6節)と命じられた。「祈り」は「施し」以上に、神に向かう行為である。祈る人自身が、はっきりと神に心を注ぎ出すことが肝心である。「あなた」は「自分の奥まった部屋に入り」、「戸をしめて」「あなたの父」に祈りなさいとは、祈りは、「密室の祈り」だけであるというのではなく、第一義的に「あなた」と「神」との親しい交わりであると教えている。人に見せる祈りや、人の評価を気にする祈りは止めなさいと。
2、「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。・・・」(7〜8節)次に注意されたのは、信じて祈るのか、それとも異邦人のように、同じことばを、ただ繰り返すのか、であった。異邦人の祈りは、神を信じていないため、くどくどと言葉数が多くなるのであって、神を信じて祈る者にとって、祈りは当然のように、簡潔で明解なものになるというのである。(※神を信じていないと、祈り手の熱心さが全てとならざるを得ない。)「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたの必要なものを知っておられるからです。」必要を知っておられる神に祈る祈り、これが神の民、キリストの弟子の祈りである。
もちろん神を信じる者が、父なる神に向かって、熱心に祈ることがある。同じことを繰り返し祈ることもある。けれども、神を信じていない異邦人のように、ことば数を多くし、自分の熱心さに訴えるように祈ることと、神を信じて祈ることには絶対的な違いがある。(※お題目を唱えることやお百度参りなどとの違いは大きい! バアルの預言者の祈りとエリヤの祈り:T列王18:26〜29、36〜37)聞かれるか聞かれないか、半信半疑の祈りではなく、また、熱心でなければ聞かれないという祈りでもなく、祈る人間の側の願いによって、神に計画を変えていただこうという祈りでもない。神を信じて祈るとき、その祈りは必ず神に聞き入れられる。父は子が祈る前から、子の必要を知っておられるからである。
3、「祈るときには、偽善者のようであってはいけません。」「異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。」「彼らのまねをしてはいけません。」主イエスが弟子たちに注意を促しておられたことは、キリストの弟子であっても、容易く陥る落し穴についてであった。律法学者やパリサイ人たちは、人の目に見える所では、確かに熱心で、信仰に富む人々と思われていた。そのように成りたいと人々を引きつけもしていた。異教の民の信仰心も、人の目には目覚しく、その成果は熱心の故と思わせるに十分であった。(※使徒19:23〜41)確かに目に見える成果を上げていたとしても、それらに惑わされてはならない。神に祈る真の祈りは、信じて祈るもの、真に簡潔なものとなるのである。
父なる神を信じて、最も簡潔に祈る祈り、それが「主の祈り」である。主イエスは「だから、こう祈りなさい」と語って、この祈りを教えておられる。主が教えて下さった祈りは、神を父と呼ぶ祈りである。神は遠くにいて、人が近づくことのできない方ではなく、幼い子が父親を求めて、その懐に飛び込むように近づくことのできる方である。子の最善を知り、最善を成そうと見守る方、それが生ける真の神である。その神に向かって、このように祈りなさいと、主イエスが教えて下さったのである。幼い子どもも、また大人も、そして年老いたとしても、この祈りを知っていさえするなら、恐れなく前進することができる。事実、世の多くの人がこの祈りによって支えられ、励まされ、立たせられて来たのである。(9〜13節)
<結び> 「施し」において、隠れていることの尊さを示された主は、「祈り」においても、何よりも隠れていることの大切さを説かれた。人の心の中を知る方は、人が心の内で真実に神と語らうことを求めておられるからである。隠れた所で見ておられる父なる神は、人に知られることがなくても、私たちが祈る祈りに耳を傾けていて下さるのである。信じて祈る時、神は必ず聞き入れ、必ず答えて下さるのである。
祈りをささげることのできる私たちは、真に大きな力によって支えられている。祈る前から私たちの必要を知っておられる父は、時に、私たちの願うところや思うところをはるかに越えて答えて下さる方である。(エペソ3:20)この父に祈る幸いを得ているので、私たちは一人で祈るだけでなく、神の民の交わりの中で、互いに祈り合う幸いにも導かれるのである。時には、言葉にもならない一言の祈りでも、父は聞き入れて下さると信じるので、私たちは祈り続けられる。何よりも祈りを教え、確かな仲立ちとなられた主イエス・キリストがおられるので、私たちは祈り続けることができるのである。(※Tヨハネ5:14〜15)
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