「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」(20節)と語られた主イエスは、イエスを信じて義とされ、神の子とされた者の生き方について語っておられた。生まれながらの人には思いもよらない教えであったが、新しいいのちに生きる者にはできることであった。神の子とされた弟子たちは、心を見ておられる父なる神の前に生きていること、その父の完全さに似ることが求められていたのである。それに続く教えは、パリサイ人たちの義にまさる生き方の、更なる具体的な態度についてであった。
1、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたの父から、報いが受けられません。」(1節)※「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。」(口語訳)キリストの弟子たちの義は、心を見ておられる神の前にどのように生きているのか、それが肝心なことであった。けれども、この世で生きている限り、多くの人の前でどのように生き、どのように振る舞うかは隠れようがなかった。それ故に、神の前に正しく生きようとする心掛けがどれだけ真実なものであっても、それでも心すべきことがあると、主は教えようとされた。
「善行=義」として、「施し」と「祈り」、そして「断食」が具体例として取り上げられている。これらは信仰生活における、「対人」「対神」「対自」に関わる事柄であって、何れにおいても正しい心と正しい態度が求められている。ところが、その何れにおいても、知らず知らずの内に、誤った動機や誤った振る舞いに陥る危険が満ちているのである。しかも、当時の社会に誤った実例が溢れており、折角の善行も、人に見せるためのものになるなら、天の父からの報いを受けることのできないものとなる。主イエスは、弟子たちに警告を発しておられたのである。
2、「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。・・・」(2節)「善行」の一例として、「施し」(※あわれみの行い)が取り上げられたのは、隣人愛の具体的な実践として考えられるからである。助けを必要としている人に手を差し伸べ、必要な金品を与えることは、いつの時代であっても、欠くことのできない尊い働きである。ところが、それを「人にほめられたくて」する者がいた。人の目に触れるようにと、「会堂や通りで施しをする偽善者たち」がいたのである。彼らは自分の名誉と自己満足のためにそれをするのであって、決して彼らの真似をしてはならなかった。人からの賞賛を得た時点で、天の父の報いを失うからである。
「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知らせないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。・・・」(3〜4節)「施し」という尊い働きであっても、人前に見せびらかすものにならないよう注意が必要であるばかりか、施しを受ける人の心にも負担を強いることのないものにする、そのような配慮が求められている。また人から受けた厚意は忘れても、自分が人にしたことは決して忘れない・・・という、そのような人の心の態度を主は戒めておられた。人に知られることがなくても、また人からの報いがなくても進んでする、そのような施し、隠れた施しをしなさいと。
3、主イエスは、結局のところ、人の生き方の根本を問うておられた。施しが隠れているかどうか、それは人からの報いを求めているのか、それとも天の父からの報いを求めているのか、その違いである。天の父からの報いだけを求めて生きること、それが神の子とされた者、キリストの弟子たちの務めである。地上で報いを求めているなら、人から報いを得たら喜ぶに違いなく、また報われることなく過ぎていたとしても、心の中で施したことを記憶に留め、自分がしたことをしっかり数えているならば、天の父からの報いをいただくことはできないのである。隠れた施しとは、人からの報いを決して求めることのないもの、天の父からの報いだけを待ち望むものなのである。
主は一方で、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」と語られた。(5:16)そして他方で、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。・・・あなたの施しが隠れているためです」と語られた。隠れた所で見ておられる父なる神がおられることを知る者だけが、この神の前に生き、また人の前に正しく生きることができる。隠れた所で見ておられる神がおられ、その神は全ての行いに相応しく報いてくださる父と信じることによって、私たち人間の生き方が定まるのである。主は、弟子たちに向かって、あなたがたこそ天の父からの報いを信じ、神からの恵みとあわれみに応えて生きる者でありなさい、と励ましておられたのである。
<結び> 隠れた所で見ておられる父なる神がおられることを、私たちはどれくらい理解して日々を生きているだろうか。この方がおられ、この方の前にいることで十分に安心しているだろうか。ついつい人に知られることを願い、また知られていないことで心を騒がせていることはないだろうか。私たちはどうすることが求められているのか。主イエスの教えに聞き従うことであり、主イエス・キリストに倣うことである。キリストが十字架の死にまで従われた、そのお姿に倣うことによって、神からの報いだけを求めて生きる道が示される。キリストを信じ、この方を愛し、この方に従う歩みに中に隠れた施しが導かれるに違いない。そこに自分の力によっては到底成し得ない施しが導かれ、天の父があがめられる良い行いが光となって輝くのである。私たちがそのように歩むなら、その証しを天の父が大いに喜んで下さるのである。
(※マタイ25:34〜40)
※海外宣教の働きが信仰の業として進められるために、どのように祈り、またどのように献金をささげ、そして実際に携わればよいのだろうか。人々の前に光を輝かすことと、隠れた働きとしてなされることのバランスをどのように考えたらよいのだろうか? |
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