「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」(20節)このように語られた主イエスは、イエスを信じて義とされ、神の子とされた者、弟子となった者の生き方について丁寧に語られた。それらは一つ一つ、生まれながらの人には思いもよらない教えであった。けれども、新しいいのちに生きる者であるからこそできることであって、主は、「しかし、わたしはあなたがたに言います」と語って、教えておられたのである。
1、主イエスが語られた第五の教えは、「隣人を愛せよ」との戒めに関することであった。旧約聖書のレビ記に、はっきりと「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と記されていることを、人々は繰り返し教えられていたのは確かであった。(レビ19:18)そしてこの教えは、律法の要約、また十戒の後半の要約として理解されていた。(※ルカ10:25〜28)ところが、「隣人は誰か・・・」と考える余り、隣人を同胞の民にのみ見出していた。異邦人は除外し、他国人を「敵」と見なし、「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と教えるようになっていた。同胞のイスラエル人以外は、憎んでも当然、愛すべき隣人ではないから・・・との感覚が人々のものになっていた。(43節)
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(44節)「汝の敵を愛せよ」と言われても、「敵」を愛するなど、とてもできない!と尻込みするのが当然である。敵対する者の存在に恐れを抱き、危害を加えられる・・・としか考えられないからである。主イエスは、敵対する者や危害を加える者の存在を恐れるのではなく、同胞以外の民を敵視することや、また他国人を異邦人として差別することなど、これまでの狭い心を捨て、全ての人を等しく愛する者となりなさいと命じておられた。先の教えにおいて、個人的な権利に拘ることを戒められた主は、個人の枠を超えて神の民には、心を広くする生き方を説いておられるのである。
2、「敵」「迫害する者」「悪い人」「正しくない人」「取税人」、そして「異邦人」と、主は、人々が同胞以外の人々を差別する言い方を用いておられる。ようするに、人は仲間以外の者に対して、なかなか心を開くことはせず、自分たちとは違う人々、油断がならない人々と考え易いのである。異邦人であるローマ人、そのローマ人の手先となっている取税人、聖書を知らず、神礼拝もしない外国人、とにかく周りには「敵」と思われる者、「迫害する者」が数限りなくいたのである。その人々をどのように捉えるのか、どのように見るのか、敵として恐れるのか、悪人として避けるのか、関係を断つことを第一とするのかが問われるのである。
人の心が感情的に避けたいと考えたとしても、主イエスは「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と命じておられる。愛は感情を越えたものであって、意志を働かせるべきもの、祈りもまた憎しみや恐れを乗り越えるものなのである。この愛に生き、祈りをささげる者について、「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです」と明言された。(45節)そのようにできた時、初めて父の子どもになれるというのではなく、天の父の子どもであるあなたがたは、生まれ変わった自分に気がつくに違いない・・・という意味が込められている。あるいは反対に、そのような自分を見出すことがないなら、自分が父の子どもになっていないことを思い知る・・・と。
3、主イエスは、私たちを含めて、神について人々が大いに誤解していることについて語られた。天の父は人を差別しない方であって、人を分け隔てなさらない方である。自分の隣人を愛することにおいて、神である天の父ご自身が、「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」ことを心に留めるなら、私たちは、人を分け隔てしない視点がどれだけ尊いものかを知らされる。神の恵みとあわれみの眼差しは、地に遍く注がれている。日本人と外国人の違いはもちろんのこと、職業や身分も、年令も性別も、そして宗教の違いさえも、一切の分け隔てなしに愛すること、祈ることが、神の民である天の父の子どもには求められていることになる。
主はそのものずばり語られた。「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」(46〜47節)人を愛そうとする時、もし自分が愛されることを求めているなら、その愛は神からのものではない。また兄弟に対してだけ心を開いてあいさつしているなら、それは神を恐れない人々も十分していることであって、天の神を父と呼ぶ者にとっては、それ以上が求められているのである。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(48節)けれども、このことにおいても、完全な者となったなら良しとされるのではなく、もう既に良しとされているので、父の子どもとして相応しくありなさい、と諭されているのである。(※使徒10:34〜36)
<結び> 主イエス・キリストの弟子たちは、天の父の子どもとされている。だからこそ、父の完全さに倣う者として「完全でありなさい」と求められている。「完全」とは「全きこと」。言葉や行いにおいて正しいこと。父なる神の全きところは、人を偏り見ることなく、分け隔てせず、一人一人を愛しておられるところである。その愛をイエス・キリストの十字架によって私たちに注いで下さったのであって、私たちはその愛によって、今神の子、イエス・キリストの弟子として生かされている。私たちの生まれながらの性質からは思いもよらないことである。けれども、だからこそ神の愛に生かされ、分け隔てのない父の完全さに似る者として生かしていただきたい。確かに私たちも、天の父の子どもとして。
|
|