心を見ておられる神の前にあなたがたはどのように生きているのか。これが主イエスの一貫した問い掛けである。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」(20節)と語られたことが、そのことを問うている。イエス・キリストの弟子として生きる者は、キリストを信じて神の前に義と認められる者、新しいいのちに生きる者とされている。それ故に、生まれながらの人には思いもよらないことが期待されることになる。
1、主イエスは、「殺してはならない」という戒めに関して、人を殺す行為のみならず、兄弟に向かって腹を立てる心の思いを問うておられた。「姦淫してはならない」という戒めに関しても、やはり心の内で姦淫を犯すことを鋭く指摘された。そして、「偽りの証言をしてはならない」という戒めに関しては、身勝手な誓いを教えられたとしても、そのような誓いは「決して誓ってはいけません」(34節)と命じ、「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです」と語られた。神の民、キリストに従う弟子たちこそ、この世にあって語る言葉を真実なもの、誠実なものとし、誠実に生きよ、と命じられたのである。
主イエスが尚も語られたことは、具体的な生活に関することであった。誠実な言葉をもって、実際にどのように行動するのかについてである。主は言われた。「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。・・・」(38〜41節)自分の権利を徒に主張するのではなく、自分の権利さえも否定する、そのような生き方をしなさいと。この教えは、驚きをもって受け留めらている。よく知られているだけでなく、はなはだしく誤解もされている。「クリスチャンなら、皆、その通りするの・・・?」、「やって見せよ!」と。
2、旧約聖書に、確かに「目には目、歯には歯」と定めているのは、何かの事故が起った場合、その償いの仕方の規定としてである。裁く者が不当な刑罰を科すことのないよう、また被害者が怒りにまかせて報復することないようにとの定めであった。(出エジプト 21:22以下)その他、裁きにおいて外国人への差別が入り込むことのないよう、また私情が絡むことないようにとのことから、「目には目、歯には歯、手には手、足には足・・・」と定められていた。(レビ24:19〜22、申命記19:15〜21)規定のねらいは、公正な裁きが行われるため、また、人々が公正な判決を受け入れ、心を納めることのためにあった。ところが、この定めを個人的な報復さえ認めるものとして受け留め、そのように教えられていたので、自分の怒りにまかせることないように、「悪い者に手向かってはいけません」と言われたのである。
一方の頬を打たれたなら、他の頬も出すように、下着を取ろうとする者には上着も、一ミリオン行けと強いる者には、いっしょに二ミリオン行くように、主は言われた。いずれも、「求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい」(41節)という教えを、具体的に示す実例である。相手が怒って手を上げたなら、それに反撃するより、互いに怒りを増幅させないようにせよ。自分に権利があっても、進んでそれを放棄せよ。そして、人から強いられることがあるなら、一層進んでその務めを果して見せよと。それらは、求める者に与えることであり、借りようとする者を拒まない行為である。自分の権利を主張しない、心の底からの自己否定を良しとするものである。主は、弟子たちが、自分を捨て、ご自身に従う者となるのを期待しておられた。
3、これらは、暴力に対する無抵抗を勧めたり、人の言いなりになることを教えているのではない。主イエスの弟子となった者に対して、自分を捨て、自分の十字架を負って、主イエスに従う者となるように、そのためには、自分の権利を放棄することや、自分の欲とはきっぱりと手を切ることを学べと教えているのである。どんなに満ち足りていても、通常、人の心はなかなかゆとりを見せることはない。怒りや恨みを鎮めることは容易でなく、権利を放棄することも難しく、自分の考えに固まって譲ることをしない。自分を捨てること、自我を殺すことなど、到底考えられないものである。けれども、主イエスは弟子たちに求めておられる。「求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」
主イエスは弟子たちの一人一人に、与える心があるかないか、与える者となっているかどうかを鋭く問うておられた。と同時に、求める者に対して、与えるものを持っているかどうかも問うておられたのである。この世では、残念ながら本来不必要なものに囲まれ、必要のないものに心を奪われることがしばしばである。人から求められた場合、何でも与えるのが良いわけではない。借りようとする者に、時には断ることが必要となる。与える者となるためには、自分が与えるべき本当のものを持っているかが問われ、また、その時に何が本当に必要なのかを判断しなければならない。何よりも私たち自身がキリストの救いに与っていることが大切となる。(※「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と語ったペテロの言葉が、私たちに指針を与えてくれる。使徒3:1〜8)
<結び> 本当の意味で与える者となるには、本当に大切なものを持っているかどうかが問われているのである。本当に大切なものではなく、消えてなくなるものに心を奪われているなら、与えるものを持っていないだけでなく、与える心は身に着かず、自我を捨て切れないでいることになる。十字架で死ぬためにこの世に来られたキリストを信じ、たましいの救いを得て、私たちは初めて与える者となれるのである。主イエス・キリストを信じ、キリストに従い、キリストに倣う時、私たちは与える者と造り変えられるからである。キリストにあって自由とされ、自分ではない自分を見させられることがあるとしたら、その時こそ、キリストが私たちの内にあって生きておられるのであって、そのことを喜び、栄光を神に帰することを導かれたいものである。
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