礼拝説教要旨(2009.05.31)        
言葉を誠実なものとせよ
(マタイ 5:33〜37)
  主イエスは一貫して、心を見ておられる神の前にあなたがたはどのように生きているか、戒めをどのように聞いているか、そして、どのように守ろうとしているかと問い掛けておられた。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」(20節)と語られたのは、そのことを問うている。心を見ておられる神の前に義と認められること、これが本当の救いへの道だからである。

1、主イエスは、先ず「殺してはならない」という戒めに関して、人を殺す行為のみならず、兄弟に向かって腹を立てる心の思いを問うておられた。そして「姦淫してはならない」という戒めに関しても、やはり心の内で姦淫を犯すことを鋭く指摘された。心の中を知る神の前に、罪がないと胸を張れる人は一人もいないことを認めなければならない。神は上辺を取り繕うことではなく、心の底から義とされることを求めておられるからである。次に正そうとされたのは、「偽りの証言をしてはならない」という戒めに関してであった。「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。・・・』・・・あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。・・・」(33〜36節)

 十戒の第九戒は明確に偽りの証言を禁じている。そして、その戒めを実際に守るために、主の名を使って偽りの誓いをすることのないように、主の名が汚されることのないようにとの教えが定められていた。(レビ19:12)また、実際に誓ったなら、必ず果すようにとの教えも定められていた。(民数記30:2、申命記23:21)聖書は、誓うこと、また主の名を使って誓うことを禁じていたのではない。あくまでも偽りの誓いを戒めているのである。守れそうもない誓いをすることなく、人に約束するなら、それを誠実に果たすこと、まして神に対しては、心からの真実をもって対峙することが求められているのである。ところが人は、目の前にいる人を意識する余り、目に見えない神の前にいることを忘れるのである。

2、律法学者やパリサイ人が教えたことは、破ってもよい誓い、または守らなくてもよい誓いという、抜け道を提示することであった。主イエスがマタイ23章16節以下で指摘しておられることである。神殿をさして誓うことと神殿の黄金をさして誓うことを区別したり、祭壇をさした場合と祭壇の上の供え物をさした場合を区別して、主の名によって誓ったなら果さなければならないが、天をさしたり、地をさしたなら、その誓いは果さずとも許されるというものを幾つも作り出していた。それで主イエスは、「決して誓ってはいけません。・・・」と鋭く、誓いを禁じることを命じられた。身勝手な誓い、偽りの誓いは一切止めよと言われたのである。

 主は確かに「決して誓ってはいけません」と言われたが、それは破るための誓いや、守らなくてもよい誓いをすることのないようにとの命令である。むしろ、真実に誓うことや、誠実に言葉を発することを真剣に求めるよう諭しておられる。「偽りの証言をしてはならない」との戒めは、人が語る言葉を、どれだけ誠実なものとするか、また真実なものとするかを求めるものなのである。「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」(37節)意味するところは明快である。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と語るなら、またその言葉の通り行動するなら、誓うことそのものも必要がなくなると思われる。人が語るその言葉が信じられないとすれば、何と悲しいことであろうか。

3、この世の中には、残念ながら空しい言葉行き交っている・・・という現実がある。「はい」は「はい」ではなく、「はい」は「いいえ」であり、人の言葉を決して信用しないよう注意が促されている。(※「おれ、おれ」とかかってくる電話に注意するように、「携帯の番号変えたから・・・」という言葉も信用しないようにと言われている。)信じ合うことが難しく、先ず疑うことから始めるというのは、とても悲しい現実である。だからこそ主は、「あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」と語っておられるのではないどろうか。神の民となった人々、キリストを主と仰ぐ弟子たちは、何よりも語る言葉を誠実なものとしなさいと。

主イエスを信じて従おうとする弟子たちが、この世でどのように生きるのか、そのことが問われている。あらゆる事柄において、神の前にも人の前にも見られている現実がある。だからこそ、一人一人が語る言葉において真実を求め、誠実に語ることを追い求めるようにと教えられている。もちろん、どんなに頑張っても私たちの誠実さには限界がある。「真実のみを語る」と宣誓していても、肝心なことになると、「記憶にありません」と繰り返す政治家たちの姿を、誰も咎めることはできない程に、私たちも不完全である。その不完全さを認めつつ、只一人完全な方、十字架で死なれたキリストを信じて従う者として、私たちは誠実に語ることを追い求めるのである。主イエス・キリストに従うことによって、私たちも真実に生きること、誠実に語ることが導かれるからである。

<結び> それにしても、人の言葉が空しく飛び交う時代に生きているというのが、今の現実かもしれない。国と国の関係はますます難しくなっている。国と国の交渉をするにも、言葉の重みが薄れている。国内の政治も経済も、本当のことが見えにくくなっている。身近な人との関係はどうだろうか。神が真実な方であり、その神の救いの約束が真実であると信じるからこそ、私たちは自分が語る言葉を真実なもの、誠実なものとするよう求められているのである。主イエスは、私たちに神を信じる者として、言葉においても誠実に生きるよう求めておられる。その思いに応えて生きられるよう、祈りつつ歩ませていただきたい。

 今日はペンテコステ礼拝であるが、聖霊が一人一人、主イエスを信じる私たちに注がれている事実は、私たちを大いに励ましてくれる。私たちは誰一人、自分の力で生きているのではない。キリストにある私たちは、聖霊が内に住んで下さることにより、その聖霊によって強められ支えられて生きている。聖霊に導かれることによって、語る言葉を誠実なものとされるのである。主イエスに従うことは、聖霊に依り頼むことであり、聖霊が内に住んで語らせて下さるからである。心からの感謝をもって、この方に依り頼むことを一層求めたい。