主イエスの山上の説教を正しく理解するカギの一つは、「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」(20節)と語られていることにある。律法学者やパリサイ人の義は、人の前に認められることを求めていたのに対し、それにまさる義とは、心を見ておられる神の前に認められることが問われているからである。主イエスは、神がどのように人の心を見ておられるのか、戒めをどのように心に留めるのかを教えようとされた。
1、主イエスは、「殺してはならない」という戒めに関して、人を殺す行為のみならず、兄弟に向かって腹を立てることも裁きに値すると語られた。それは、神が人の心を見ておられること、人の心の思いを知っておられることを告げるためであった。その同じ視点を一層明らかにするのが、「姦淫してはならない」との戒めに関することである。ユダヤ人の多くは十戒をよく教えられていた。第十戒が貪る心を戒めるものであることも知っていた筈である。ところが戒めを個別に切り分け、禁じられている行為を避ける限り、戒めを守ったとすることを追求したのである。主イエスの指摘は鋭かった。姦淫の罪を実際に犯さないでいることで安心するのではなく、心を見ておられる神の前に生きているか、それが肝心なことと問うたのである。(27〜28節)
「・・・あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」この指摘の前に、誰一人反論できる者はいない。いつの時代にあっても、世界中の全ての男性が、この教えの前にドキリとさせられる。男性だけでなく女性も、心の中で犯す罪が神に知られていることにハッとさせられる。行為となって現れる罪と、行為にはならない心の内に止まっている罪のどちらも、神の前には同等の罪である。この事実はよくよく考えると深刻である。どんなに立派に見えても、内側は汚れたものであるという事実を、神だけが見抜いておられるというのである。神は全ての人が罪ある者であることを知っておられる。心の中を知る神の前に義とされて生きることを、神が求めておられるのである。
2、私自身、この教えを前にして打ちのめされる。神の前にどのように顔を上げることができるのか・・・? どんなに心を律しようとしても誘惑には勝てず、自分の弱さと愚かさを思い知らされるばかりである。救いはどこにあるのか・・・? この世にある限り、この罪深い者のために十字架で死なれたキリストを仰ぐことがなければ罪の赦しはないことを、心の底から信じるようにと導かれる。それ以外に、決して心が安まる道はない。主イエスは、全ての人が心の内で罪を犯すことを認めるように、「私は罪を犯していません」と言える人はいないことを示しておられたのである。心の内側を知る神がおられること、その神の前にキリストを信じて義とされることを求めなさいと。
もし罪を放置したまま神の裁きの前に立つなら、永遠の滅びに至るのであって、罪と対峙することのないまま過ぎることのないように、この世の今を第一とするのか、永遠を心に留めて生きるのか、よくよく考えなさいと言われる。「右の目」また「右の手」が罪へと誘うなら、それを失っても真の救いに入りなさいと主は語られた。(29〜30節)この世で大切とするものを失っても、永遠のいのち、たましいの救いははるかに尊いことを知りなさいと。実際には、右の目をえぐり出して捨てても、なお心の中で罪を犯すのが私たちである。姦淫の罪も殺人の罪も、決して私たちからなくなることはない。イエス・キリストを信じて義とされること以外に救いはないのである。
3、主イエスは、姦淫の罪を実際の行為に現れるものに限定する過ちを正そうとされたのである。それに加えて、離婚を巡って、他の者に姦淫を犯させる罪のあることを指摘された。神が神聖なものとして定められた結婚の絆が軽んじられていたからである。夫婦はその神聖な絆を尊び、互いに愛し合う者として生きるように求められていた。ところが、妻を離別するには離婚状を与えればよいと言われるようになっていた。形を整えさえすれば・・・と。そもそも、モーセの時代に離婚状を命じたのは、身勝手な離婚がまかり通るのを制限するためであった。それを離婚状を渡せばよいと考えるのは筋違いなのである。主イエスは、より厳しく離婚を制限し、「不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。・・・」と言われたのである。(31〜32節)
身勝手な離婚は、妻に姦淫の罪を犯させ、また離別された女と結婚する者にも姦淫の罪を犯させることになる。それは神が喜ばれないことである。戒めの本当の意味、神が人に求めておられることを取り違えるのは、神の前に人の心の中が問われていることを忘れることによる。互いに愛し合うよう求められているにも拘わらず、「自分に正直でいたい」と、愛さない自分、また愛そうとしない自分を正当化して離婚に踏み出す。不貞以外の理由で離別することを禁じる主イエスのみ思いを、今一度、心に刻むことが求められている。「姦淫してはならない」との戒めは、結婚においてこそ、互いに愛し合い、互いに赦し合い、時には弱さと罪深さを認め合って、神によって合わせられた不思議や、神の助けなしに地上の日々を生きられないと悟るよう命じているのである。
<結び> 主イエスは、心をご覧になる神の前には、「義人はいない。ひとりもいない」ことを知るように人々に語っておられた。(※ローマ3:10)弟子たちも、神の民とされた幸いを心に留めながら、神の前に義とされることを、心の底から喜ぶ者となるよう導かれていたのである。罪の凄まじさを知るとともに、罪からの救い、罪が赦されることの確かさを心から感謝する者となること、それは私たちにとっても大いなる幸いである。私たちも、イエスをキリストと信じること、罪からの救い主と信じることによって義とされ、天の御国に入れていただけるからである。キリストを信じる信仰をいよいよ堅くしていただきたい!!
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