一年前の「教会設立29周年記念礼拝」において、私たちの教会の最初からの歩みを振り返り、私たちの弱さや愚かさを主が乗り越えさせてくださり、主ご自身がみ業を成し遂げておられることに目を向けることができた。そして『私たちが主への賛美を歌い続けることを、主は喜んでくださるに違いない。来年は30周年、その後50年、70年・・・と歴史を刻む時、私たちは主への賛美を歌い続け、主の恵みとあわれみを感謝し続けたいものである』と、詩篇106篇のみ言葉から励まされ、今日、確かに30周年記念の礼拝を迎えることを導かれた。改めて、全てのことが父なる神のみ手の中で、そして教会のかしら、キリストのご支配の下で営まれていることを感謝し、主のみ名に栄光を帰すことができるようにと祈るばかりである。
1、今朝この「教会設立30周年記念礼拝」では、私たちは何を支えにして、ここまで歩んで来たのか、あるいは、歩んで来れたのか、そして、これからも何を支えにして歩み続けるのか、そのようなことをみ言葉から学んでみたい。教会が教会として歩み続ける時に、何が教会の支えとなっているのか、そのことについてである。主イエスが弟子たちを世に遣わされる時、「わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです・・・」と語られたことがある。(マタイ10:16)そこには何か張り詰めた空気が感じられ、厳しい荒波が予感されていた。そうした緊迫感を持ちながらも、弟子たちはどのように前進したのか、また初代の教会がどのように歩み続けたのか、大いに興味が湧くのである。
2、主イエスが弟子たちに繰り返されたのは、「わたしのゆえに」「わたしの名のために」という視点であった。弟子たちはどこに行っても、主と無関係になることなく、主がともにおられて、任された働きに携わるのであった。復活後、主は天に昇られる時、そのことをはっきりと約束された。「見よ。わたしは、世の終りまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)弟子たちと初代の教会の聖徒たちの拠り所、それは「主がともにいます」との確信だったのである。けれども、時にはその確信が揺らぎ、心を騒がせたに違いない。四六時中、決して忘れない・・・という訳にはいかず、うろたえることもあったと考えられる。失望や、また絶望する程に苦悩もしたと思われる。ペテロしかり、またパウロしかりである。
3、ところが使徒パウロが恐れ、うろたえている場面は、聖書の中にほとんど記されてはいない。弟子たちを激しく迫害した後、きっぱりと回心して迫害を受ける側に立つ者となった彼は、いつも勇敢で、恐れることもなく歩み続けたように見える。そのようなパウロであったが、アテネからコリントに移った時は、幾分か失意の内にいたと考えられる。そして、ようやく気を取り直してコリントの町で福音を語り、よい反応が現れ始めたとたん、同胞の激しい抵抗にあった。パウロは気力を振り絞って、「今から私は異邦人のほうに行く」と言い切ったのであった。そのような時に、主は幻によってパウロに語られた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。・・・」パウロは、正しく恐れの中にいたのであった。
4、主イエスはパウロに向かって、「わたしがあなたとともにいるのだ」と語られた。そのことを思い出しなさいと。主の守りの確かさを明言し、宣教の業が空しく過ぎることなく、確かな実を結ぶことを約束された。その約束を信じたパウロは、「一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた」のであった。信じて、分っていても、また知っていたとしても、「主がともにいます」ことは、繰り返し心に刻み直すことによって、より確かなこととして覚えられるのである。イエスに従う者に必要なこと、主の民である教会にとっての大切なことは、いつどんな時代になっても、どこにいたとしても、主イエスご自身が、ご自分の民とともにあって歩んで下さることを心に留めることである。恐れに包まれることがあるなら、その時こそ、「わたしがあなたとともにいる」と語り掛けて下さっている時である。
<結び> この約束の言葉は、私たちの教会にとって、また私自身にとって、何度となくそこに立ち返る約束の言葉であった。この教会に招かれて働き始めた時から、いつも拠り所としたものである。恐れたり迷ったりの繰り返しであったが、いつもそこに立つことを導かれていた。これからの歩みにおいても、必ず主が語り掛けて下さる約束の言葉である。30周年という歩みは、真に意味深いものがある。前半は主の導きに必死に従おうとした15年であって、後半は、ちょっと立ち止まって主の導きを探る15年であったように思う。その境に独立した川越の群れの分裂があり、私にとっては、どのようにして主に従うのかを問い続けるばかりであった。教会としては、礼拝をささげ続けることを中心とするように、あれこれといろいろなことに思いが分散させられないようにと導かれたと思う。その全てのことの背後に、「わたしがあなたとともにいる」との主の約束があったのである。この確かな約束が私たちを支え導いてくれたことを心から感謝し、これからの歩みもこの約束を信じて前進させていただきたい。
※今日この礼拝に森田哲也兄の証しが導かれたことにも、主の摂理を確信することができる。森田兄の受洗日は1994年8月7日で、分裂騒動の痛みの真っ只中であった。恐れと戸惑いの中で洗礼式を迎え、主からの慰めと励ましによって教会の皆が力づけられたのであった。主がともにいますことによってのみ、私たちは立ち上がり、前進することができると教えられるのである。
|
|