「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」(20節)主イエスはこのように言い切っておられた。律法学者やパリサイ人の義にまさる義、それは主イエスの義を着せられることによる。主イエス・キリストを信じて義とされた者は、心を見ておられる神の前に、いよいよ心を低くし、神の目に叶う者として歩もうとする、そんな謙虚な心の持ち主とされるのである。主イエスは続けて、神がどのように人の心を見ておられるのか、また戒めが本来どのような意味があるのかを丁寧に教えようとされた。
1、主イエスが先ず語られたのは、「殺してはならない」という戒めに関してであった。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。・・・」(21〜22節)十戒の一つ一つの戒めは、律法の中心となっており、神の民イスラエルの人々にとっては、幼い時からしっかり心に刻まれた教えであった。ところが戒めを完璧に守ろうとする余り、律法を教える者の解釈が加わり、本来の意味からそれてしまう・・・、そのような問題が生じていたのである。民の指導者たちが、必ずしも間違っていたとは言えなかったとしても・・・。
「汝、殺すなかれ」との第六戒は、確かに「人を殺してはならない」との戒めである。人の命を尊ぶこと、人が神の形に似せて造られたからこそ、その命は、この上もなく尊いことを教えている。(創世記9:6)律法にはこれに付随する教えが加えられており、人を殺してしまった時はどのようにさばくのかが示されている。律法学者やパリサイ人たちはそれらの教えを要約して、「人を殺す者はさばきを受けなければならない」と人々に教えていたのである。(出エジプト21:12〜14、民数記35:16以下)人々は自分で聖書を開くことはなく、民の指導者たちから聖書の朗読を聞き、教えに耳を傾けていたわけで、主が言われるように「・・と言われたのを、あなたがたは聞いてい」たのである。
2、それに対して、「しかし、わたしはあなたがたに言います」と語られた主は、「殺してはならない」との戒めの真の意味を教えますと、単なる解釈や説明ではない教えを語ろうとされた。多くの人々が、「殺すな」と命じられて、人を殺すことさえなければ、立派に戒めを守れたと理解していた。しかし主イエスは、「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきをうけなければなりません。・・・」(22節)と言われた。人殺しに至る以前の、その人の内にある怒りそのもの、そして、その次に来る怒りの言葉、それらは十分に裁きに値しているのである。人の目に明らかな犯罪が裁かれるのみならず、神の目の前には、人の前に明らかにはならない心の思いも、また「それ位のことは・・・」と見過ごす程度の嘲りの言葉も、全くの同罪なのである。
主は、神の前に罪のない人はいないことを悟るよう迫っておられた。戒めを守って義とされる人はいないこと、戒めを前にして、有罪を認めざるを得ない全ての人の現実を知りなさいと、鋭く迫っておられたのである。兄弟に腹を立てること、その怒る思いが口からほとばしり出ること、その言葉がエスカレートすることを、ほとんど全ての人が経験している。手を振り上げ、刃物を振り回したことはなくても、また人を傷つけたことは一度もなくても、それで殺人は犯していないと胸を張れる人はいないのである。何よりも、全ての人が神の前に罪があることを知らなければならない。その罪の解決こそが、全ての人のにとって最重要、最優先、先ず処理されるべき事柄なのである。
3、神の前に罪あることが解決されること、これが最優先であることを理解するのに、主イエスは、兄弟との和解の必要を説かれた。ともすると神礼拝を最優先して、兄弟とのわだかまりを放置するという間違いを犯すのが私たち人間である。第一のものを第一としているつもりで・・・。けれども心を見ておられる神の前には、自分に非があるなら、兄弟との仲直りこそ、先ずすべきことなのである。また何か訴えられているとするなら、訴える者との和解を急ぐこと、それに心を傾けなさい、その和解の機会を失うなら、取り返しがつかなくなると言い切られている。神礼拝の時、神に心を傾ければそれで良いのではなく、自分と周りの人々との関係にも思いを馳せ、神の前での罪の赦しの幸いを、人との関わりにおいても経験させられて喜ぶことが大事と、主は語っておられる。(23〜24節)
心にある罪が神の前に露わであること、この事実を言い逃れることのできる人はいない。この罪に裁きが下されたなら、そこから逃れられる人は一人もいない。「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。・・・」(25〜26節)主イエスは、群衆に向かっては、神の前にあなたはどう生きていますかと、真剣に問い掛けておられた。弟子たちに向かっては、既に天の御国の民の幸い生きているとするなら、いよいよ神の前に心を低くして生きる者でありなさい、また、罪の赦しを受けた者として、心を安んじて生きる者でありなさいと語り掛けておられたのである。
<結び> 主イエスは、今生きているこの時、それはどのような時かを知りなさい、今生きているのは、神が生かして下さっていることに他ならず、心を見ておられる神の前に生きる者でありなさいと諭しておられるのである。戒めを表面的に守って安心することなく、心の内を見抜かれる神の前に、赦しをいただいて生きる者でありなさいと。神によって赦しをいただいて、周りにいる兄弟との関係も整えられて生きること、それには公の礼拝をささげる毎に、自分を吟味して心砕かれること、それは私たちにとって何よりの幸いとなるのである。「しかし、わたしはあなたがたに言います」との主イエスの教えに、確かに聞き従う者と成らせていたこうではないか。
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