主イエスが語られた天の御国の民の幸いは、生まれながらの人々には、なかなか理解されないものであった。しかし、生まれ変わった神の民は、この世にあっては、「地の塩」であり、「世界の光」であると明言される程に、確かな存在とされているのである。主イエスの教えは、弟子たちをはじめ、多くの人々によって驚きをもって受け留められていた。そこで主は、これから更に教えを語るにあたって、その根本となることを語り始められた。(※山上の説教の全体を理解する上でカギとなることである。)
1、主イエスの教えに、確かに人々は驚きをもって耳を傾けていた。「新しい教えだ・・・」との受け留め方や、「今まで聞いていた教えと何かが違う・・・」との思いで人々は聞いていたのである。人々には「旧約聖書」の「律法や預言者」があり、それを教えられ、それに従って生活している現実があった。ところが、主イエスの歩まれた日々や語られた教えにはどこか違いがあり、「メシヤの到来」を預言する旧約聖書を信じる人々にとっては、いよいよ「来るべき方」が来られたのか・・・と、大いに期待が膨らむのも事実であった。そうした思いに対して、「わたしが来たのは律法や預言者を・・・廃棄するためでにではなく、成就するために来たのです」と語られた。(17節)
「来るべき方」が来ることを預言するのが旧約聖書であった。イエスがその方であり、その方が来たから、旧約聖書は最早いらなくなったと考えてならなかった。そうではなく、そこに示されている教えの意味が、真の意味で明らかになる時が満ちたと、そのように理解すべきなのである。律法が命じることは、十戒をはじめ様々な儀式に至るまで、人の生き方を事細かに定めている。それらが一つ一つ何を定め、何を要求しているかを理解するのは、かなりの困難があった。その困難のために、ユダヤ人の指導者たちは、律法を何とかして守れるようにとあれこれ解釈を加え、様々の規程を付け加えていたのである。そうした中での主イエスの到来は、旧約聖書を不必要とするのではなく、それを本当の意味で用い、その教えに従うためだったのである。(18節)
2、ところで、19節で語られることは何を意味するのだろうか。「戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者」とは誰のことなのだろうか。その人は「天の御国に入れない」とは言われないで、「天の御国で、最も小さい者と呼ばれます」と言われている。戒めを破っていても、天の御国に入ることは許されている。これは、天の御国に入る者の義は戒めを守ることにはよらないことを明示している。律法学者やパリサイ人が必死に求めた義が、律法や戒めを守ることによるものであったのに対して、主イエスが教えられた義は全く別のものだったからである。戒めを表面的に守ることではなく、その人の心の内をご覧になる方の前にどのように生きているか、それが問われているのである。
もちろん、「それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」けれども、戒めを守ったので天の御国に入るのではない。御国に入る者の義は、只一人義なる方、イエス・キリストを信じる人が、キリストの義を着せられることによるものである。キリストが、キリストを救い主と信じる者と父なる神の仲立ちとなることによって、神の前に人が義とされる道が開かれる。それ故、感謝をもって戒めを守ることこそ尊いことになる。それを守ろうとする者、また人に守るように教える者とは、守れないからこそキリストを仰ぎ求め、神に助けられて守ろうとする人であり、神の前に遜る者となって御国に迎えられる幸いな人なのである。
3、「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」(20節)天の御国に入る者の義が律法学者たちの義にまさるものであるのは、義しさの度合いや優劣の問題ではない。彼らは自分の力で全部を守ろうとして、自分で守れたと判断し、時に他の人と比べて安心を得ようとしていた。しかし主イエスは、守れないことを悟って神の前に遜ることを求めておられた。御国に入る者の義は、キリストの義を着る以外にないのであって、それはキリストを信じる者にのみ与えられるものである。得ようとして得られるものではなく、心を低くして初めて与えられるものである。それは神が人の心をご覧になるからである。
「御国に入る者の義」「天の御国に入る者の義」とは、神がその人の心をご覧になり、その心を善しと認めて下さることによるものに他ならない。神の目にも、人の目にも露わな外面が大切なことは言うまでもない。けれども、人の目には外面を取り繕うことができる。そのため、人は目に見えることだけで判断を下して失敗を繰り返す。主イエスは、そのような過ちを繰り返すことのないよう、心を見ておられる神の前に義とされる者となるよう求めておられる。神の前に心安んじて生きられるのは、主イエスを救い主、キリストと信じる者、その人だけである。(※21節以下は、神がどのように心を見ておられるかを示す教えである。)
<結び> 「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」との指摘は、真に鋭いものである。律法学者たちは、決していい加減な生き方をしていたわけではなかった。熱心に、真面目に戒めを守ろうとしたのは確かである。けれども、神の前に心を低くすることがなかったのである。戒めを守れず、小さな戒めさえ破ってしまう弱さや罪深さを、心から認める人だけが、身代わりとなって十字架で死なれたキリストを信じて義とされる。その人は神の前に義とされたことを感謝する人となり、神が求めておられる義を、自分からも追い求める人と益々造り変えられるのである。
「御国に入る者の義」、それは神によって心を見られた時、神が善しとして下さることを喜ぶ人の義である。主イエス・キリストに倣い、キリストに従って生きることを喜ぶことによるものである。私たちはそのような義に生きる者とされ、日々造り変えられて歩んでいるか自己吟味が迫られる。それとともに、神の前に心が露であることを改めて知る時、救い主キリストがおられることによる安心を知らされ、感謝に溢れるのである。 |
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