礼拝説教要旨(2009.04.19)       
地の塩、世界の光
(マタイ 5:13〜16)

 主イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。・・・」と語って、神の民の幸い、イエス・キリストを信じて神の子とされた者、キリストにあって生まれ変わったクリスチャンの幸いを、八つの面から教えて下さった。それらは生まれながらの人々には奇異なものであって、到底理解し得ないものであった。キリストに従おうとする者にとっては、迫害さえもキリストに似る者のしるしであり、「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです」と言われるからである。(12節)

1、けれども、神の民、天の御国の民は、迫害を只じっと耐えるだけなのか・・・と問うなら、決してそうではない。迫害を避けて逃げ出すのでもなく、迫害の有る無しとは無関係に、この世にあって生かされていること、この世で生きていることには意味があって、必ず役割を担わされていることを忘れてはならない。全ての人にとって、「生きること」は「生かされていること」であり、世にあっての「存在」そのものが、とても尊いことを見失ってはならないのである。そのことについて主イエスは、「あなたがたは、地の塩です。・・・」と神の民に向かって明言された。(13節)

 「あなたがたは、地の塩となりなさい」と命じられているのではなく、また「地の塩の役割を果しなさい」と励まされているのでもない。「あなたがたは、地の塩です」と明言した上で、塩の性質に触れ、「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。・・・」と注意を促している。神の民の存在が、この世にあってどれ程大きな役割を果しているのか、その存在の尊さを知りなさいと言うのである。塩が調味料として用いられること、また腐敗を防ぐのに役立つこと、しかも少量で全体に効果を発揮すること等々、神は明らかに、ご自身の民を世に送り出し、この世に罪がはびこるのを防ごうとしておられるのである。

2、もちろん神の民が増し加えられ、地の塩である聖徒たちが増えることは喜ばしい。けれども、現実に神の民が少数であることは折込済みである。少なさを嘆くことなく、「地の塩」との自覚が促されている。神の民として生きる一人の存在が、この世でどこにあって、どの家庭にあっても、また職場や地域にあっても尊いのである。この世は、時に正しさや公平さに関して、余りにも不条理である。「しかり」を「しかり」とすることや、「否」を「否」とすることに困難を覚える世の常識との戦いがある。神を恐れる視点がない限り、誰もが世に流されるのが当り前となる恐れがある。

 だからこそ、主イエスは、塩が塩けをなくしたら、「もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです」と警告を発している。けれども、それは自分を省みて、「外に捨てられるのか・・・?」と怯えさせるためではない。主は「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。・・・」と語って下さる。神の民は、最早隠れることができない存在であって、世の光である主イエスご自身の光を受けて、「世界の光」となっているからである。「光」が輝き渡る時、最早それを遮るものがない程に隠れることのない様を告げている。隠れるどころか、周りを照らし、隠れたものを明るみに出すまでに光の働きはとても貴重である。神の民が一人、そこに居ることの意味と役割はとてつもなく大きい!(14〜15節)

3、山の上にある町が隠れられないこと、あかりをつけて、それを覆い隠すことがないこと、それらは神の民がこの世にあって、人々の前に決して隠れてはいないことを示している。地の塩として、世の人々の中にいるとしても、世に全く同化してしまうことはない。また世界の光として、世を照らす者として存在しているのが、そのまま人々によって見られていること、光となって輝いていることと明言されている。「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て・・・」と語られる。神の民が輝かす「光」とは「良い行い」であり、「良い生き方」そのものである。けれども、自分で光ろうとしてできることではない。それはキリストの光を受けて、光の内を歩む者だけが放つ光なのである。

 そして、その「良い行い」を見た人々が「天の父をあがめるようになる」こと、それがゴールであると主は言われた。(16節)語る言葉は、もちろん大切である。どのような振る舞いをするかにも、常に細心の注意を払うことが求められている。けれども、何か特別なことをして、注意深く、言葉を選んで語ればよいわけではない。むしろ、日々の生活そのものを、主イエス・キリストと共に歩む者として生きているのか、キリストの教えに聞き従って歩んでいるのか、そのことが大事なのである。地の塩、世界の光として生きる神の民が一人いるなら、その人の生きている姿を通して、キリストの光が放たれるのであって、天の父をあがめる人が、必ず起こされるに違いないのである。
(※ペテロ第一2:12)

<結び> 「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。」(14節)13節の「あなたがたは、地の塩です」とともに、「あなたがたこそは、・・・」との強調を込めて語られている言葉である。主イエスが「わたしは世の光です」と語られたことと結びついて、イエスに従う者、イエスにつく者は、イエスの光を受けて「世の光」「世界の光」とされるので、最早「隠れることができません」と宣告されている。御国の民とされた者は神の前に全てが露わとされているだけでなく、世の人々の前にも、隠れることのできない存在として送り出されていることを告げている。

 それだけの自覚を持って生きるように、またそのような存在として、確かに生きなさいと、主イエスは語っておられる。私たちは、ともすると何かをすることや何かができることに、生きることの意味や価値を見出そうとする。そのような時、ついつい他の人と自分を比べて安心をしたり、反対に苛立ちや焦りを感じたりしている。そう成り易い自分を見出すことはないだろうか。「地の塩」も「世界の光」も、先ずは存在そのものが主イエスに従う者の証しとなる、そんな生き方を私たちに示していることを心に刻みたい。一人一人の生きているその生き方を通して、天の父があがめられるなら、その証しが実を結ぶことになるからである。