礼拝説教要旨(2009.04.12)        
復活のイエス
(マルコ 16:1〜8)

 受難週が過ぎて、今朝はイースターの礼拝を迎えた。十字架で死なれたイエスの復活を世界中の教会が祝い、生きて働いておられる主イエス・キリストを通して、真の神への礼拝がささげられている。これこそキリスト教会のいのちと希望の源である。十字架なしに罪からの救いはなく、復活なしに教会の歩みが今日まで続くことはなかったのである。聖霊なる神のご臨在の下で、み言葉に耳を傾け、復活の主を仰ぎ見て心からの礼拝をささげたい。

1、今朝の聖書個所は、イエスの十字架の死と葬りに続く、週の初めの日の出来事である。マルコの福音書は、主イエスの生涯を記し、そのひとこまひとこまを、他の福音書に比べると淡々と語っている。十字架のことも、復活のことも、さりげなく事実を伝えようとしたかのようである。死からの復活は途方もないことであった。けれども、決して仰々しく記すことなく、主イエスの身近にいた者たちがどのように受け留めたのか、そして、それがどのように伝わって行ったのかを告げるのである。

 イエスが十字架で死なれ、葬られたのは、安息日が夕方から始まる金曜日のことであった。アリマタヤのヨセフによってなされたイエスのからだの葬りはは、香料を用いて亜麻布に包まれはしたものの、安息日が迫る慌しさによって十分なことができなかったようである。埋葬をよく見ていたマグダラのマリヤとヤコブの母マリヤ、そしてサロメたちは、安息日が終わったら、改めて香油を塗りに行こうと用意して、今か今かと夜が明けるのを待っていた。そして夜が明ける前から墓に急ぎ、日が上った頃に墓に着いたのであった。道々の心配は墓の入口の石のことであった。果たして誰が動かしてくれるのだろうかと。
(1〜3節)

2、岩を掘って造られた墓の入口に、石を転がしかけるのは通常のことであった。けれども、イエスの墓には番兵がつき、石には封印がなされていた。弟子たちが盗み出すかもしれないから、その上「よみがえった」と民衆が惑わされるといけないからと、ユダヤ人の指導者たちがピラトに頼んでいたからである。(マタイ27:62〜66)婦人たちの心配は当然であり、もっともであるとともに、彼女たちが「復活」のことなど、全く思い至っていなかったことを物語っている。只々イエスの亡骸を丁寧に葬りたい、イエスへの愛を何とか形で表したい、その一心だったのである。

 ところが墓に着いた時、墓石はすでに転がしてあり、墓の中には「真っ白な長い衣をまとった青年」がいるだけで、イエスのからだは見当たらなかった。その「青年」はみ使いであって、「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です・・・」と告げた。葬られた筈のイエスのからだはそこになく、死からよみがえられたからである。そのよみがえりの知らせを、弟子たち、特にペテロに告げるように語り、彼らとガリラヤで会うことを知らせるようにと語った。婦人たちの驚きと戸惑いは大きかった。すっかり震え上がって、気も転倒していたので、墓から逃げ去り、誰にも何も言えないないほどに恐れに包まれた。(4〜8節)

3、イエスの復活の出来事に関するマルコ福音書の記述は、より厳密にはここで終わっている。元々はあったものが失われたか、マルコが未完の内に世を去ったか等と考えられ、追加分のある写本が存在する。そうしたことも踏まえて、8節までに語られたことを理解する時、週の初めの日の朝早く、まだ誰もが知らない間に、超自然の力が働きいて墓石が動いていたこと、そして婦人たちが墓に着いた時、その墓はすでに空であったこと、それは、イエスがよみがえられたからであり、生きている方はもう墓にはおられないこと、これらをこの福音書が告げようとしたことが明らかである。婦人たちも弟子たちも全く期待していなかったよみがえりに接して、恐れに包まれるしかなく、先を見通すことすらできなかったのである。

 復活されたイエスご自身だけが、先を見通しておられた。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。』実際には、そのしばらく後にマグダラのマリヤに現れ、その日の内にペテロに現れ、弟子たちの前にも姿を現しておられる。けれども、それより先のことを告げて、死の恐れや悲しみに止まることなく、死からの復活によって、全く新しい使命に生きる者となることを気づかせようとされた。最早、墓に死人を訪ねることなく、死の悲しみに打ちひしがれることなく、墓にはいない、生きておられるイエスと共に生きる者となりなさい。これこそ、イエスをキリストと信じる者の歩む道ですと。婦人たちも、また弟子たちの一人一人も、たちまちの内にそのような信仰者となったわけではなかった。時間が必要であった。少しづつ、徐々に復活のイエスを信じて、やがて復活の証人となって行ったのである。

<結び> 「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられえたナザレ人のイエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。・・・」み使いは空っぽとなった墓を示して、主イエスは復活された!と告げていた。墓はもうイエスのおられる所ではなかった。イエスを墓に訪ねることはいらないのである。イエスを、今、生きておられる方と信じて、この方と共に生きること、この方と共に歩むこと、それが私たちの生きる力となるのである。復活のイエスを信じることは、死の恐れではなく、いのちの希望に溢れることである。死を打ち破った方が共にいて、支えて下さることに優るものはないからである。「あの方はよみがえられました。」私たちも復活の希望に生きられるとは何と幸いなことであろう。
(※コリント第一15:12〜20)