礼拝説教要旨(2009.04.05)        
十字架のイエス
(マルコ 15:16〜47)

 受難週、イースターを迎え、特別な思いで主イエス・キリストの十字架と復活を覚えることが導かれている。キリストの十字架の死、そして死からのよみがえり=復活=は、私たちの信仰の中心である。キリストの死は認めても、復活は信じられない!と言う人もいるが、死からの復活があったので、福音は全世界へと広がったのである。今年も、受難週とイースターを迎えられる幸いを感謝し、十字架の主イエスを仰ぎ見て、み言葉に耳を傾けたい。

1、今朝の聖書個所は、主イエスの十字架のクライマックスというべきものである。「十字架につけろ、十字架につけろ」との群衆の叫びに屈したピラトが、バラバを釈放した後、イエスを十字架につけるように引き渡し、兵士たちは散々イエスを痛めつけたり、嘲弄したあげくに処刑場へと連れていった。最後の晩餐の後、ゲッセマネで捕らえられたイエスは、夜を徹しての裁判にかけられ、夜明けからピラトの前に引き出され、むち打たれ、紫の衣を着せられたり、脱がされたり、いばらの冠をかぶらせられ、葦の棒でたたかれたり、そして十字架を負わされてゴルゴダに着いたのであった。途中、十字架を負いきれずに、クレネ人シモンが無理やり背負わされることがあったり、イエスの体力は限界に達していた。(12〜22節)

 主イエスが十字架につけられ、その右と左に二人の強盗も十字架につけられたのは、午前9時頃であった。十字架の上で、痛みと苦しみに耐えておられたイエスを見た人々が、「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」とののしっていた。祭司長や律法学者たちは、勝ち誇ったかのように嘲っていた。「キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。それを見たら信じるから。」十字架につけられ、イエスと同じ苦しみを味わっていた強盗たちも、一緒になってののしり続けていた。イエスは、痛みに耐え、ののしりや嘲りを忍んで、十字架の上に留まり続けておられた。(23〜32節)

2、正午頃、全地が暗くなって、その闇が午後3時頃まで続いた。真っ黒な闇が垂れ込める中で、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」(「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」※詩篇22:1)罪人の身代わりとなり、罪を一身に引き受けている限り、聖い神の怒りが、イエスの上に降りかかっていた。神の御子でありながら、父なる神に見放され、見捨てられる悲しみ、そして痛みを、余すところなく身に受けておられたのである。苦痛を軽減するために用いられるぶどう酒を口にすることなく、十字架の苦しみをいささかも割引くことなく忍び抜かれた。その間に三時間が経過していた。(33〜36節)

 イエスは、旧約聖書に約束されたメシヤ(キリスト)が受ける苦しみの全てを、割引なしに受けておられた。人々の嘲りやののしりは、全てその苦しみから逃れることを唆すものであった。それらは、主イエスに対して、十字架の死、身代わりの死を不完全なものとするための唆しであった。イエスご自身、闇が垂れ込める中で、孤独に耐えながら、罪の赦しを未完成に終らせようとする誘惑と戦っておられた。「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」「・・・もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」(※マタイ27:40、43)イエスが決して十字架から降りることなく、身代わりの死を成し遂げられたのは、父なる神への従順と、罪ある者を愛し通された愛の故だったのである。
(ピリピ 2:6〜8)

3、イエスの叫びは、聖い神から最も遠ざけられた者が、その絶望の中から、それでも「望みはあなただけです」との叫びであった。父なる神に見捨てられたとしても、「わたしはあなたを信頼します」と祈られたのである。それは痛みに震えながらも、神を頼り、神の助けを待ち望んでいる、そんな姿であった。そして最後に大声をあげて息を引き取られた。(37〜38節)その言葉は「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)か「完了した」(ヨハネ19:30)のどちらかであった。人々が、まだ何かが起ると、興味深々に待ちかまえていた時、全てを神に委ねて息を引き取られた。殺されたようでいて、その死は自ら選んだもの、死によって死を打ち破る、罪人の身代わりの死そのものだったのである。(ヘブル2:14〜15、ペテロ第一2:24)

 十字架の周りにいた人々の内、ローマの百人隊長は、全てを見届けた上で、「この方はまことに神の子であった」と語った。十字架刑の執行を指揮していた隊長と考えられる。彼はイエスを神の子と信じて告白するまでに導かれていた。そしてアリマタヤのヨセフは、「思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った」のであった。彼は、そこに至るまで大いに葛藤を繰り返していた。イエスに興味を抱き、好意を持ちつつも議員の立場上、イエスへの信仰を表明するのを躊躇っていた。けれども今こそ心のまま、思い切ってイエスへの信仰を言い表す時と迫られたのである。彼らにとって、イエスの十字架を仰いだその日、その時、生涯忘れられない大切な日、また時となった。(39〜47節 ※他にもニコデモがイエスの葬りに加わっている。)

<結び> イエスの十字架の周りには多くの人がいた。ゴルゴダの丘へと歩まれたイエスを見た人は大勢いた。通りすがりの人、ずっと後をついて行った人、初めから最後まで嘲って止まなかった人、途中で居た堪れなくなった人、ずっと悲しみを共にした人・・・など様々である。弟子たちの姿がほとんど印象に残らないのが不思議なくらい。イエスと行動を共にしていた多くの婦人たちもいたが、彼女らは痛みをこらえてイエスの十字架を見守っていた。そんな中で百人隊長とヨセフの告白が記されている。それは私たちに対する問い掛けである。十字架のイエスを、あなたは誰と告白するか・・・?と。十字架の死によって私たちを罪から救って下さる方、イエスこそ真の救い主、キリストとの告白を真心から言い表すことを、今一度明確に導かれたい。また死から復活されたイエスこそ私の望みですとの証しが、一人一人に、そして教会全体にとって確かなものとなるように心から祈りたいものである。