礼拝説教要旨(2009..03.29)        
義のために迫害されている者
(マタイ 5:10〜12)

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」この言葉で始まった天の御国の民の幸いの教えは、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。・・・」(10節)で締めくくられる。単なる道徳的な教えではなく、また人の生き方の勧めなのではなく、神の子とされた者の姿、神の民の本質が語られている。最後のものは正しくその典型というべきものである。迫害されている者がどうして幸いと言えるのか、苦しみの中にあり、死の恐怖が襲う中でどうして幸いを味わえるのか。

1、「迫害」、それは教会の歴史を知る者には、いろいろな形で思い浮かんで来るものである。紀元一世紀以降、ローマ帝国によるキリスト教迫害が四世紀初頭まで続いたこと(※紀元313年にコンスタンチヌス帝により公認される)、 また日本では、キリシタン禁令により約300年に渡る迫害の時代があったことが思い浮かぶ。近いものでは、先の大戦中の朝鮮半島における日本政府による神社参拝強制という迫害、国内における天皇崇拝の強制などがある。日本だけでも殉教した人は数え切れず、拷問の凄まじさは身の毛がよだつばかりである。何故に人はかくも残虐になれるのか、反対に、何故にかくも勇敢に迫害に耐え得るのか、今、迫害が襲うなら、私たちはどうするのだろうか・・・等など、心騒ぐのは自然である。(※イスラム圏、北朝鮮、中国などでは、今も迫害は続いているとの報告あり。)

 旧約聖書には、神の民が迫害されたことが数多く記されている。カインによる弟アベルの殺害に始まり、ヨセフに対する兄たちの妬みによる遺棄と商人への売り渡し、400年に渡るエジプトでの労役、王国の時代には預言者たちの苦闘と死など、迫害は当り前のように繰り返されていた。(※マタイ23:29〜36)パウロは「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と語る。(テモテ第二3:12) 聖書は神の民には迫害がつきものと明言しているのであって、迫害を受けることなく、真の神への信仰を全うすることは有り得ないのである。では、その「迫害」を「幸い」として受け留めるのは、一体何によってなのであろう。

2、主は言われた。「義のために迫害されている者は幸いです。」神の民が正しく生きていること、神の義に生きていることの故に迫害されるなら、その人たちは幸いであると言うのである。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」(11節)「義のため」とは「「わたしのため」であると主は言われた。すなわち、キリストのために生きることの故に、キリストを信じる信仰を守り抜こうとすることに対する迫害を受けるとするなら、それはその人にとって幸いなことである。それによって、その人の信仰は本物であると証明されるからである。「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。・・・。」(12節 ※使徒たちの姿:使徒5:41〜42)

 人は、他の人からの賞賛を喜ぶのが普通である。普通というより、賞賛に憧れるものである。けれども、主は警告された。「みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。」(ルカ6:26)また次のように語られた。「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:18〜19)迫害は、神の民がキリストのものか世のものかを見分けるしるしとなっており、賞賛には落し穴があるので心せよ、と主は言われたのである。

3、自分から「迫害」を求めることではなく、あくまでも「義のため」に生きて受ける「迫害」がキリストに似る者のしるしである。それ故に、その人は幸いな者と言われるのである。また、義に過ぎて、人を裁き、自らの正しさを誇り、そのために周りの人々から疎まれることがある。けれども、それはキリストに似ることではない。自らを低くする者、心を低くし、柔和で、あわれみ深くあり、神の恵みとあわれみに満たされていることを感謝して、一層キリストのように生きようとする者が迫害されるとするなら、それこそがキリストに似るしるしである。「天の御国はその人たちのものだから」と、幸いが約束される。究極の救い、天の御国に入る幸いこそ大いなる祝福である。

 だからと言って、今の世の生活は仮のもの、一時的なものと考えて軽視してはならない。主イエスは、たとえ迫害によって脅かされたとしても、また命の危険に襲われて心が騒いでも、この世の事柄が全てではないこと、絶対ではないことを心に留めるよう教えておられる。天の御国の民とされている幸いによって、今の苦難を耐え抜く力が与えられること、永遠を望み見ることによって、目の前の困難に立ち向かう勇気をいただくのである。それは内に住むキリストによること、また内に住む聖霊の助け主としての働きによることである。主イエス・キリストを信じる者にとって、キリストに似ることの喜び以上のものはない。迫害があったとしても、「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから」と主は言われるのである。(※ペテロ第一1:3〜9)

<結び> この教えは、今日の私たちには、自分の信仰を省みるように迫るものである。世界では今も迫害下にある教会があるものの、この日本にあっては、迫害と言える迫害は、ほとんどないに等しいからである。それでも、「義のために迫害されている者は幸いです」との教えが私たちに当てはまるとするなら、どのように生きることが大切なのかを迫られる。クリスチャンの一人一人の生き方、そして教会の在り方、どちらもこの世にあって、世の人々に認められる必要があっても、決して世に倣ってはならないものである。世の偽りや過ちに対しては毅然と対峙することが求められている。神が求めておられる正しさを掲げて歩むこと、キリストに似る者として、義のために生きることを追い求めなければならない。

 旧約聖書時代の預言者たち、そして、新約聖書の時代から今日に至るまでの聖徒たちは皆、義のために生き、そのために迫害を受けたのであった。私たちもまた、キリストに従い、この世にあって勇敢に戦い抜く者として生き抜くことができるよう、主の助けと守りに信頼したい!また天の御国を継ぐことの幸いがどれ程大きいのか、心に留めて歩みたい!(※ヘブル12:1以下、ピリピ3:20)