「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(9節)主イエスが語られた天の御国の民の幸いな姿は、全て生まれながらの人の姿ではなく、生まれ変わって神の民とされた者の姿である。山上の説教を道徳的な教え、人の生き方の勧めとして理解されることがあるが、そのように捉えると本質を取り違える。主イエスは、「平和をつくる人になりなさい」と語ってはおられない。「平和をつくる者とされたあなたがたは、何と幸いなことでしょう!」と、弟子たちに語っておられたのである。
1、「平和」という言葉の持つ意味は、万民に共通して大切なものであり、また響きも心地好いものである。全ての人が「平和」を愛し、これをこよなく追求している。けれども、どれだけ熱心に追い求めても、どれだけ真剣に考えても、実際に「平和」は遠ざかるばかり・・・との虚しさを味わうのもまた現実である。「日本には平和憲法ある」という形の上での事実と、「平和憲法があっても本当に平和があるかは別・・・」という、日々の生活の現実が重く圧し掛かる。全ての人が、神に背いた罪の結果、「平和」を願いながらも、争いを避けられずにいることを認めなければならない。何よりも先ず、神との「平和」、神との交わりの回復が、人間にはどうしても必要なのである。
神の前に罪ある人間の本質は自己中心である。誰もが自分の利益を求め、自分にとっての最善を優先する。そのため「平和」を求めたとしても、自分のため、自国のためにとなって、時には力による「平和」を相手に押し付ける。けれども、主イエスが繰り返し指摘されているのは、神の前では人の心が問われることである。「平和」については、神の前に罪の赦しを与えられ、それによって神との平和を得た者が、「平和をつくる者」となって世に送り出されることが肝心なのである。自分の罪を認めて心を低くする人、神によって心をきよくされた人が「平和をつくる者」として生かされるのである。これは自分で成そうとしてできることではなく、神の御業として成ることである。
2、「平和」と訳されるギリシャ語「エイレーネー」は、争いがないこと、また一致して話し合うことができる状態を表している。ヘブル語の「シャーローム」は、人と人との完全な関係、安心できる状態などを表している。そこに平和な人がいるなら、その人の周りに平和が実現するのは言うまでもない。性格的に穏やかな人がいるだけで人の輪が和むのも確かである。けれども、主は生まれながらの性質のことを語っておられたのではない。神との平和を得た人が「平和をつくる者」となって生きることがどれだけ幸いであるか、「その人たちは神の子とよばれるから」と語られた。神の子とされた人は、世にあって「平和をつくる者」として生きている。そのような神の子の一人が、そこにいることの意味、また意義は途方もなく大きいのである。
神の子とされた者は、存在そのものを良しとされるばかりか、「平和をつくる者」とされる大いなる使命を与えられている。存在そのものの尊さを自覚することを忘れてはならないが、同時に使命の尊さを見失ってはならない。主は、ただ弟子たちの幸いに感嘆しておられたというより、天の御国の民として生きるよう彼らを励ましておられたのである。御国の民は、今この地上にあっては「平和をつくる者」として生かされていると。その生き方の模範はどこにあるのか。それは主イエスご自身の生き方にあった。主は「平和の君」としてこの世に来られた方である。そして、罪人の身代わりとなって十字架の上で死なれるまで、人々の嘲りに耐え、苦痛をも忍んで、その生涯を全うされた。罪人に神との平和をもたらし、人と人との間にも主にあって和らぐことを導き出して下さったのである。(ローマ5:1、エペソ2:15〜18、ピリピ2:6〜8、コロサイ1:20)
3、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子と呼ばれるから。」この幸いを私たちが実感するには、どのように生きることが求められているのか。第一は、自分の救いを今一度確認することである。主イエス・キリストを救い主を信じる信仰に堅く立っているかどうか・・・。自分の罪深さに心砕かれ、悲しんだからこそ十字架を仰いでキリストを信じたことを、心から感謝しているかどうか・・・を心に問うことである。罪の赦しを確信し、神との平和を得ているかどうか、神の愛がこの私に注がれていることを知って、なお一層神の愛と恵みに依り頼みたいと心から願っているかどうか・・・。御国の民とされ、慰められ、地を受け継ぎ、義に満たされ、あわれみを受け、確かに神を見ているからこそ、「平和をつくる者」として生かされている自分、神の子とされた自分がいることを見出すなら、何と幸いであろう!
その上で、「平和をつくる者」の使命を具体的に果すことである。平和について論じることであろうか。行動することだろうか。そのいずれよりも、神との平和をもたらすことのため、祈り労することを優先させるべきであろう。すなわち、神の子として、人々をキリストのもとに導くために心を砕き、労することである。真の平和は、全ての人にとって、神との平和なくして決して実現し得ないからである。この地上にある教会の歩みは、人の目に歩みの遅いものであり、見える成果の乏しいものである。それでも神は教会を世に立て、神の民に使命を果させておられる。一人が救いに導かれ、「平和をつくる者」となって生きるように、神との平和を得て、更に「平和をつくる者」が起こされるようにと、教会とそこに集う者を励ましておられるのである。教会はどんなに遅い歩みであっても、人々を神との平和に導く歩みを成し続けるのである。
<結び> 私たち一人一人が主イエス・キリストに連なり、そしてキリストの教会に連なっているなら、その事実は「平和をつくる者」として確かに生きていること、生かされていることに他ならない。けれども、更に前進することが大切である。今の日本の情勢、そして世界の情勢は、政治も経済も、またあらゆる事柄に関しても真に深刻である。私たちの存在が、どこにあってもキリストの香りを放つものであるか、私たちが語る言葉が、いつもキリストの愛を表すものであるか、そして私たちの行いが、キリストの愛に裏打ちされたものであるか・・・などが問われている。「平和をつくる者」が「神の子と呼ばれる」のは、彼らが確かに神の子だからである。神の子は、誰よりも神の御子キリストに似る者である筈である。私たちは、一層キリストに似る者となり、「平和をつくる者」としての歩みが導かれるよう祈り続けたい! |
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