礼拝説教要旨(2009.03.08)        
心のきよい者は幸いです
(マタイ 5:3〜10)

 「心の貧しい者は幸いです。・・悲しむ者は幸いです。・・柔和な者は幸いです。・・義に飢え渇く者は幸いです。・・あわれみ深い者は幸いです。・・・」主イエスが語られた幸いな人々、天の御国の民の姿は、生まれながらの人の姿ではなく、生まれ変わった神の民とされた者の姿である。その人は神のあわれみを受けたからこそ、あわれみ深い者とされ、あわれみをもって他の人に接することが可能とされている。この視点は全ての幸いに及んでおり、御国の民は、やがての救いの完成を確信して、今この地上の日々を感謝をもって生きるよう励まされているのである。

1、前半の四つの幸いに裏打ちされ、あわれみ深い者とされた御国の民について、主イエスは「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」と言葉を続けられた。(8節)「心のきよい者」とはどのような人のことなのか。神によって心をきよくされた人のことである。その人は自分の心の汚れを悟り、烈しく悲しむ他ない心砕かれた者である。その人は神の義に飢え渇き、神のあわれみを受けて満ち足らせていただくことによって、心をきよくされ、そのようにして神を見る幸いに与ったのである。人が神を見たいと願っても、心をきよくされることがないならば、神を見る幸いに到達することはない。

 神が存在するなら、自分の目で見て、手で触って確かめたい・・・と、多くの人が願っている。この目で神を見たら信じる!と言い張る人も多く、聖書の中のトマスだけではない。けれども、主イエスがこの地上を歩まれた時、神ご自身であるイエスを自分の目で見ていても、イエスを神とは認めなかった人が大勢いた。そのことは神を見ることの難しさを暗示している。すなわち、肉の目で見たとしても、心の目で見ることがなければ、神を見ることは不可能ということである。そして心の目で見るには、その心がきよくなければ神を見ることはできないのである。

2、心が「きよい」とは、どのようなことを言うのであろう。通常、「きよい」「きよくない」を論じると、外面的な「きよい」と「汚れている」を考え始める。そのため、神の前にきよい生き方を求めながら、現実には内面のきよさは後回しになって、教えや戒めを守ることばかりに集中することになる。形式主義や律法主義がそれであり、主イエスは心の内側からきよめられることの大切さを説いておられた。(マタイ15:10〜20、23:25〜28)心の内側のきよさは、どれだけ神に心が向いているか、一心に神を求め、神に聞き従おうとしているかによって測られる。心が「きよい」とは、心の思いがあれもこれもに分裂することなく、ひたすら神に向かうこと、その一心さを意味するのである。

 それ故に聖書は二心を戒めている。「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。」(詩篇24:4)「心がきよらかな者」は「心のいさぎよい者」(口語訳)のこと。神に向きつつ、同時にむなしいことに心を向ける人は、決して心のきよい者ではない。ヤコブの手紙では「二心の人たち、心を清くしなさい」と命じられている。(4:8) ひたすら神を求め、心を神に向ける人は、必ず神を見ることができる。神がその人に近づいて下さるのであり、神にお会いして、神が共にいて下さる最高の祝福を受けることになる。

3、「心のきよい人は幸いです。その人は神を見るから」という幸いは、御国の民がこの世で生きる時、肉の目で神を見ることではない。心の目で見ることであり、それは確かに神がおられることを心で受け留めることである。また、起り来る出来事の背後に神がおられることを知って感謝することや、自分に注がれた神の愛を悟って、いよいよ神に仕えたいと心から願うことである。実際にこの地上には神の御手の業が満ち溢れている。それに気がつき、目を留めるのは、ひたすら神を仰ぎ見る人である。この世の忙しさに紛れている限り、人は神の御業の前を通り過ぎるだけで、神の愛に触れて心を動かすことなく、空しく日を過ごすだけとなる。

 日毎の生活の中で神を見、また神の御業を見ることができることは、この上ない幸いである。この造られた世界に神の御手の業が溢れていることを、どれだけ知っているだろうか。(詩篇19:1以下)日々起り来ることに神の愛やあわれみが込められていることを、どれだけ感じて過ごしているだろうか。(マタイ6:31〜34)世の多くの人が神を見ることがないのは当然である。神を信じることなく、「神はいない」と言い張るからである。(詩篇14:1以下)しかし、私たちは神を信じ、神が遣わされた救い主キリストを信じて生きる者とされた。かつては二心で迷うばかりであったが、今は心をきよくされ、神を見る者となり、神と共に生きる幸いな者とされている。そして、もっともっと神の御業に触れて、神を喜び、感謝に溢れる者となるよう期待されているのである。

<結び> 主イエスは語られた。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」主に従い、神を仰ぎ、神の民となって生きる弟子たちに向かって、あなたがたは何と幸いなことでしょう!と語られた。心が神に向き、一心に神を求める人は、神を見て、神にお会いして神と共に生きる幸いを得ているからである。人が持っている道徳的な善良さや知的な賢さ、また意志の堅固さ等は、どんなに尊いものであっても、神の前には決して完全なものではない。神は全ての人に対して、あくまでも心の内を探り、心のきよさを求めておられる。それ故、心のきよさこそ私たちが心に留め、神の前に求むべきことなのである。キリストを信じて心をきよくされることは、私たちにとってこの上ない幸いである。一層キリストに似る者として、きよさを追い求めることも尊いことである。今、幸いな日々を生かされるだけでなく、終りの日には、確かに神にお会いし、神を見る光栄が約束されているからである。