礼拝説教要旨(2009.03.01
)        
あわれみ深い者は幸いです
(マタイ 5:3〜10)

 「心の貧しい者は幸いです。・・悲しむ者は幸いです。・・柔和な者は幸いです。・・義に飢え渇く者は幸いです・・」と主イエスは語られた。天の御国の民の幸いは、皆、生まれながらの人には無縁なものであった。生まれ変わった者、神の民とされた者の性質、また本質として身に着くものだからである。次に主が語られたのは「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」であった。(7節)ここからは、前半の四つの幸いに根ざしたもの、自分の周りに目を転じたものとして教えが展開される。

1、前半の四つは、明らかに自分の内側をどのように見つめるか、即ち、自分をよく知ることと結びついている。自分を知り、自分の欠けを認めて神を仰ぐこと、自分に絶望するからこそ神の義を求めるのである。人は、その頑なな心を砕かれることなしに、神の前にひれ伏すことはない。だからこそ、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。・・・」と言われる。そして「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」と言われるように、神の義を求め、その求めが満たされ、心が満ち足りることによって、周りの人に心を通わすことが可能とされるのである。

 「あわれみ深い者は幸いです」と言われる、その「あわれみ深い」ことは、確かに人に与えられている「優しさ」や「穏やかさ」の感情と密接なものである。人と人を結びつける大切な「愛」の一面である。けれども、その「愛」について、どんなに大切と叫んでも、実際に愛をもって他の人に接することの難しさを私たちは経験する。そして「愛」も「あわれみ」も、果たして自分に備わっているのか、全く自信を失うことに行き着く。あわれみ深い振る舞いをしようとしても行き詰まり、愛ある者のように生きようとして、何と表面的にしか振る舞えない自分を見出す。変えられることがなければ・・・。

2、「あわれみ」とは、困難や悲惨の中にある人を見て心を動かすこと、同情心や共感する心のことである。苦しみの中にある人を助けたいと願うことと言うこともできる。神が罪人の私たちをあわれんで下さったのは、正しく私たちを罪の中から救い出そうと願われたことであり、キリストを信じる者は、神の恵みとあわれみによって滅びから命に移されたのである。このあわれみを受けた者は、あわれみを受けたことによって、あわれみ深い者に変えられるのである。自分にない「あわれみ」を受けて、初めて「あわれみ深い者」としての生き方が可能となる。それで「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」と明言されるのである。

 主イエス・キリストによって表された「あわれみ」を受けた人は、あわれみが何であるか、どんなものであるか、どれ程のものか等など、いろいろと経験させられて日々を生きている。自らがあわれみを受けた者として、他の人にあわれみを示すことができる者と変えられているのである。それ故に、もしあわれみの心を閉ざすなら、それは自分の受けたあわれみを拒むこととなり、赦しの恵みを否定することになる。主イエスはそのことについて、繰り返し警告しておられる。赦された者は赦す者となるように、あわれみを受けた者は、人に対してあわれみ深い者となるようにと。(※マタイ6:14、15、18:21〜35)

3、通常、人と人との間であわれみ深くあるには、相手の人の立場で考えることや、その人の身になって行動することが求められる。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)と言われるように、困っている人、悲しんでいる人と心を通わせるなら、それがあわれみ深い者としての尊い役割を果たすことになる。しかし、現実は人の身になって考えるのがなかなか難しい。自分が経験した痛み以外は、ほとんど理解できない私たちである。私たちは自分がどれだけ痛みを経験し、また困難や悲惨を味わっているかに応じて、他の人に対して「あわれみ深い者」となることも事実である。

 そのことは、神のあわれみがないなら自分の幸せがないことを、私たちがどれだけ知っているかを問うことになる。罪を自覚して、罪ゆえの弱さや愚かさは、神のあわれみによってのみ取り去られることを、心の底から信じているかどうか。神の前に顔を上げることもできない取税人のように、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と、胸をたたいて祈るしかない自分を認めること、それが問われている。(※ルカ18:9〜14)破綻した自分が、キリストのあわれみによって救われ、生かされ、立たせられていることを知る時、私たちも他の人に対してあわれみをもって接することが導かれるのである。(※一人一人、心から主イエスをキリスト、私の救い主と信じるよう招かれている。)

<結び> 「あわれに深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」自分の弱さを知る者だけが、他の人の弱さを思いやることのできる者になれる。神のあわれみを受け、神に心から感謝する者だけが、他の人にあわれみ深い者となり、終りの日の救いが完成する時、神のあわれみを確かに受けることになる。(※ヤコブ2:13)私たちが今、心に留めるべきことは、あわれみを受けた者として、世にあって「あわれみ深い者」として生きることである。私たちが目を留め、心を配るべきことは、実に多岐に渡り、助けを必要とする事柄、また人々は限りない程である。キリストが私たち一人一人に目を留めて下さったことを感謝し、キリストに倣って、私たちも本当の意味で「あわれみ深い者」として生かしていただきたいものである。