「心の貧しい者は幸いです。・・悲しむ者は幸いです。・・柔和な者は幸いです。・・」と語られた天の御国の民の幸いは、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」と続く。(6節)自分の内に善が宿っていないことを知る人は、悲しみに包まれたとしても、そこに止まるのではなく、また心を穏やかにされ、柔和な人とされたとしても、それで良しとするのではなく、必ず立ち上がる人である。本当の解決を神に求めるように導かれるからである。真の解決のないまま、人が幸せになる道のないことは明白である。
1、「義に飢え渇く者は幸いです。」主イエスはこのように語られたが、果たして人は、「義」に飢え渇くことをしているのだろうか。確かに「正義」や「公正」という言葉が使われ、この世で「公義」が行われることが何よりも尊ばれる。けれども、何としばしば「正義」という言葉が空しく響くだけで、「公義」が損なわれている現実に直面することであろうか。世の多くの人は自らを「正義」として誇り、力を振りかざして「悪」を行っている。けれども肝心なことは、自らに「義」はなく、「正義」も「公正」も、「公義」もないことを知り、心を砕かれることから始めることではないだろうか。
その上で「義」とは何であるか、自らにはない「義」の中身を知ることが必要となる。聖書が語る「義」、主イエスが教えておられる「義」とは、この世で語られる一般的な意味での「正義」とは異なるものである。道徳的な意味での「正しさ」ではなく、人格的に「優れている」ことでもない。ただ一人正しい方、聖にして義なる方である神の性質である「義」「神の義」を指している。神が正しい方であり、義なる方であるので、その「義」を知り、その「義」を受け、神に良しとされることを心の底から求めることが、神の民にとっての幸いへの道である。神だけが真に正しく「義」なる方であることを認め、この神の前に正しく生きようとすることが「義に飢え渇く」ことなのである。
2、心を砕かれることが、なくてはならないことであっても、神の民はそこで沈んだままではない。意気消沈しているのでなく、「義に飢え渇く者」とされる。ぼんやり求めるのでなく、飢え渇くほどに求めるのである。群衆が遠くからも主イエスにお会いしようと集まったように、また、群衆に行く手を阻まれた時、屋根をはがして病人を吊り降ろしたように、必死になって近づくこと、それが「飢え渇く」ことである。主イエスのもとには、そのようにして集まっていた弟子たちがいた。また群衆の中にも真剣に求める人々がいた。主はその人たちを空しく去らせることはなかったのである。(ルカ5:18〜19)
「飢え渇く」という表現には、明らかに求めの熱烈さ、執拗さ、強さなどが込められている。もちろん、求めが熱心であるなら応えられる・・・ということではない。熱心さも神によってもたらされることを忘れてはならない。けれども、自分を知り、罪に悲しみ、心を砕かれ、神の義を真剣に求める他に望みがないと知ったので、そのようにするのが天の御国の民である。「その人たちは満ち足りるから。」神はご自身の民に、必ず豊かに報いて下さる。神がご自身の民に与えて下さる「義」は、キリストに似る者としての「義」であり、キリストにあって正しく生きる者として下さるのである。
3、「飢え渇く」ことについては、更に考える必要がある。なぜなら、私たちは「義」に飢え渇くことにおいて、なお心の鈍さがあるからである。それは、「義」を求めることを、「キリスト」を求めること、「キリストに似ること」を求めることに置き換えると明らかになる。キリストのもとに近づくこと、またはキリストを慕って近づくことと考えてもよい。これは神の民である私たちにとって、絶対的に必要なことである。それなしに立つことは不可能なことである。にも拘わらず、「飢え渇く」ほどに真剣ではない求め方で、満足している自分がいることはないだろうか。もっともっと「キリストに似る者として下さい」と祈ることが勧められているのである。
「キリストに似る者となりたい」との願いを強くするなら、もっとよく「キリストを知る」ことが必要となる。キリストを知るのは聖書を通してであり、祈りや礼拝を通して知ることがなければ他に道はない。結局のところ、「義に飢え渇く」ことにおいて、私たちに一番大切なのは神との正しい関係を求めることであり、罪から離れ、心の底から神の聖さと正しさを追い求めることに向かうことである。そのようにして神に向かうなら、神は必ず良きものをもって、私たちを満ち足らせて下さる。私たちにとって最高の喜びは、神を知り、キリストを知って、神との交わりの中で生きることである。そのために聖書を開いて祈り、自ら礼拝をささげ、また共に礼拝をささげ、一層「義に飢え渇く者」となることを願うなら、神の祝福は豊かに注がれるのである。
<結び> 「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」この幸いの宣告も、他の幸いの言葉と同じように、既に今、あなたがたは何と幸いな人たちでしょうか!との感嘆の意味が込められている。同時に、終りの日の救いの完成の時の、完全な意味での幸いが約束されている。神の民、天の御国の民とされた人々の救いは、終りの日に必ず完成する。その救いの故に、この世で何があっても揺るがないばかりか、今、神によって満ち足りている者として生きている。(※ピリピ4:11〜13)キリストが身代わりとなって死んで下さったので、キリストを信じる私たちは、罪を赦され、罪の縄目から解き放たれている。キリストの義が私たちのものとなり、神との正しい関係は揺るがないものとして私たちに与えられている。私たちは、感謝をもって、また大いなる賛美をもって地上の生涯を歩み抜くことができるのである。
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