礼拝説教要旨(2009.02.15)        
柔和な者は幸いです
(マタイ 5:3〜10)

 
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。・・・」主イエスが語られる天の御国の民の幸いは、人々を驚かせるものであった。この世の人々にとっては、心の貧しい者も、また悲しむ者も、とても幸せな人と思えないからである。けれども、神の前に自分の心の貧しさを悟り、そのことを嘆き悲しむ者は、必ずや神のもとに進み出て、神からの慰めを受けることになる。主イエスは続けて、「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」と語られた。(5節)

1、「柔和な者は幸いです。」この第三番目の幸いに至って、初めて、それはそれなりに「幸い」と思えることである。人にとって、柔和な心や態度、また言葉はどんなにか周りの人々を和ませるものか、誰もがそのように考えている。「柔和」とは、心が優しくて穏やかなことと理解する限り、そんな心の持ち主になりたいと願わない人はいないであろう。けれども、その願いがあっても、願い通りにいかない現実に直面する。柔和とは全く程遠い自分、柔和になれない自分を見出す。柔和になろうとして、果たして幸いを得られるのか・・・。主はここでも、神によって柔和な者とされたあなたがたは、何と幸いな人たちでしょうか!と弟子たちに語っておられたのである。

 「柔和」とは、3節の「貧しい」とほぼ同じ意味を持つ言葉である。心の貧しさを知って悲しみ、心を砕かれ、自分の無力を認めた結果として心優しくなることを言い表している。時には自信のなさから来る大人しさ、また弱々しさを感じる優しさを「柔和」と思い違いすることがある。けれども、本当の「柔和」は、神の前での無力さを認めて心を低くする人に神が与えて下さるものである。自分には自信がなくても、神にあって立つことを許される、謙遜を身に着けた優しさのことである。(※モーセについて「謙遜」と言われていることや、主イエスがご自分のことを「わたしは心優しく、へりくだっているから」と言われることが「柔和」の意味を表している。民数記12:3、マタイ11:29)

2、善に対して無力である罪を認め、聖い神の前に全く打ちのめされた自分を心の底から認めることは、実際にはとても難しいことである。心を砕かれて自信を失ってしまったら、そこから立ち上がれないのではと、不安に襲われる。絶望からは何も生まれず、失意の底に沈むばかりと考えてしまう。全てを失ったときの最後の拠り所は何であるか、そのことについて誤解しているからである。自分で何とかできると考え、手にしている拠り所を決して手放そうとしないのである。しかし、主イエスは、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と命じられた。砕かれた心にのみ、神が働き掛け、主イエスに似る者と変え、その人を柔和な人と変えて下さるのである。

 「柔和な者」についても、これは生まれながらの性質のことではなく、生まれ変わった者に、神が与えていて下さることなのである。天の御国の民とされた者が、確かに「柔和な者」として、心の優しい人として、また心の穏やかな人として周りの人と和らぎ、神が用いて下さることを喜ぶ謙遜な人として生きるなら、「その人たちは地を受け継ぐから」と約束されるのである。神の民として、神から祝福を受け、これを次の世代へと伝える栄誉を担っているのである。神は、決して心高ぶる者をよしとはされない。遜る者、砕かれた魂の持ち主を用いようとされる。主イエスに似る、柔和な者を祝福されるのである。

3、「柔和な者は幸いです」と聞いても、やはり半信半疑なのが世の常であろう。心が優しく穏やかなことが「柔和」であるので、理解はし易いものの、この世の荒波を思うと、反対に強さや逞しさを求めるからである。世は正しく弱肉強食で、人々は先を争い、成功は能力や先見性に左右されると信じ込んでいる。教会も成功した例に学び、より大きな教会や有能とされる教師をもてはやす傾向を否定できない。けれども、主イエスの教えは「柔和な者は幸いです。・・・」である。神に心を砕かれ、自分に頼ることを止めた人、自分に頼ることができないと悟った人、真に心優しい方である主イエスに従う人が幸いな人なのである。(マタイ11:28)

 主は本当の意味で「柔和」な方、心優しい方である。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(ペテロ第一2:23)自分は無となっても、その時、神が全てを引き受けて下さることを信じていた。自分のことを主張する必要がないので落ち着いていられる、そのような柔和さである。内面において、父なる神への信頼と従順があることによって、外面において平静でいられるのである。周りのことに苛立つことなく、恐れもなく、驚き慌てることもない。神への信頼が、その人を柔和の者として立たせて下さる。主イエス・キリストに似る者は、そのような「柔和な者」とされる、真に幸いな人である。

<結び> 私たちは、「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」と語られる通りに生きるよう、主によって期待されている。期待されているばかりか、聖霊の働きによって確かに生まれ変わり、柔和な者として世に送り出されてもいる。何という栄誉であろうか。家庭にあって、職場にあって、また地域にあってもどこにあっても、柔和な者の存在はどれだけ幸いなことであろうか。「地を受け継ぐ」のは、決して将来のこと、やがての終りの日のことではなく、今この地上で、既に地を受け継がせていただいており、神からの祝福に与っているのである。

 今既に神の民とされている。測り知れない神の恵みを受けているので、この地上で、決して不足することはない。神の前に富む者とされた人には、何物も不足することはない。(コリント第二6:10)その上で、終りの日に救いが完成するのである。キリストと共同の相続人となることが約束されているからである。(ローマ8:17、ガラテヤ3:29、4:7)私たちは、一層キリストに似る者とされ、「柔和な者は幸いです。その人は地を受け継ぐから」との祝福の内を、確かに歩ませていただきたいものである。