主イエスは、山上にて弟子たちに語り始められた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。・・・」天の御国の民の幸いを、一つ一つ明らかにしようとされた。それは生まれながらの人には不可解と思われるもので、注意深く聞かなければ、ただ驚くだけで、とても受け入れられない教えであった。イエスは続けて語られた。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(4節)
1、「悲しむ者は幸いです。」これもまた、この世の基準とは全くかけ離れている。「悲しみ」は「不幸」の始まりと考えるのが世の常で、悲しむ者が幸いである筈がない・・・と、多くの人が言うに違いない。悲しみが降りかかる時、それがどんな悲しみであれ、その人の心は激しく揺り動かされる。大切な責任を任されて失敗したなら、そこから立ち上がれないのではないかと不安に包まれ、病気であるなら、治らないのではないかと恐れるのである。そして最大の悲しみと言えば、死に直面することであろう。悲しみの中で幸いを見出すことは、この世ではほとんど不可能なことである。
主イエスが語られたことを理解するには、何を、どのように悲しんでいるのか、そのことがカギとなっている。第一の幸いが「心の貧しい者は幸いです」であったように、第二の幸いも、明らかに「心」が問われている。心の貧しさゆえに絶望し悲嘆に暮れる、そのような「悲しみ」が指摘されている。日頃の生活における様々な悲しみとは違う悲しみ、それは霊的な悲しみのことであり、神の前に罪のために破綻している自分、自分ではどうにもならない自分を、心の底から悲しむ人は幸いであると、主は言われる。(「悲しむ」という言葉は、烈しく泣き崩れ、爆発する感情の動きを伴う悲しみを表している。)
2、神の前に罪ある自分に絶望することにおいて、余裕のある人など一人としていない筈である。にも拘わらず、罪ゆえの悲惨さに気づかず、この世は表面的な喜びや楽しみを追い求めている。現代はそのことが顕著であるが、主イエスが歩まれた時代も、この世は似たものがあった。それで主は「いま泣くものは幸いです。やがてあなたがたは笑うから」と言うだけでなく、「いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから」と語って、警告も発しておられた。(ルカ 6:21、25)神の前に、人の心の内側が明らかにされることを何よりも尊ぶこと、これこそ主イエスが問うておられることである。
神の民、天の御国の民にとって大切なことは、主イエスを信じて御国の民とされたことの幸いを、決して見失わないで生きることである。けれども、この世にある限りは、その幸いを徒に振りかざすのではなく、何故に幸いなのかを心に留め、日々自分を省みることを忘れてはならない。心の貧しさを知ること、そのことに心を痛め、烈しく悲しむこと、神の清さの前に恥じ入るしかない自分を認め、神の恵みとあわれみに拠り頼むことによって、再び立ち上がらせていただくことを繰り返すのである。真実な悲しみをもって悲しむ者に、上よりの慰めが約束されているからである。
3、神の民が自分に絶望し、自分の無力さや罪深さのゆえに悲嘆に暮れていても、それでも真に幸いなのは、「その人たちは慰められるから」である。彼らには、主イエス・キリストという真の「慰め主」がついている。悲しみの時には慰めが必要としても、どんな慰めの言葉も耳に入らないことがある。人の言葉がかえって心を騒がせてしまう。黙っていて欲しい・・・とさえ感じる。それでいて一緒にいて、共に泣いてくれる人が欲しい・・・ということもある。そんな時に、そしてどんな時にも、主は傍にいて慰めて下さる方、真の慰め主として、神の民を支えて下さっている。決して傍を離れることなく、御国に入るまで共におられる方なのである。(マタイ28:20)
人を罪の中から救い出すことができるのは、ただ神が遣わして下さった救い主キリストだけである。人の罪深さ、罪ゆえの無力さや醜さは、人がどんなに努力したとしても、根本的な解決の道はない。できることは悲しむことのみ・・・というほどに絶望的である。しかし、その絶望ゆえに悲しみ、心から悔い改めるなら、その人はキリストのもとに導かれ、キリストを救い主と信じる信仰に必ずや導かれ、真の慰め主から豊かな慰めを与えられる。自分の惨めさを知ることによってのみ、人は主イエス・キリストのもとへと導かれる。もし惨めさを知ることがないなら、決してキリストのもとへと進み出ることはない。そのように、本当の意味で悲しむ人こそ、幸いな人なのである。
(ローマ 7:24~25)
<結び> 私たちが、本当の意味で「悲しむ者は幸いです」との幸いに与っているなら、この幸いに一人でも多くの人が共に与ることを願うのは当然である。この幸いの知らせをどのように広めるか、救いの福音を如何に伝えるかに心が向かうに違いない。その時、幸いであるから、喜びの知らせであるから、神の民は喜びに溢れていなければ・・・と考えるかもしれない。そのため、心の底からの喜びでなく、上辺の喜びや明るさを求めることがある。教会の歴史において、繰り返しその過ちを犯しているのは事実である。しかし神の民にとっては、本当の喜びであるか、また心の底からの明るさであるかが問われていることを、しっかりと心に刻みたい。
自分では解決できない罪に苦しみ、悲しんでいる者が、キリストによって赦され解き放たれる喜び、この喜びこそ、私たちがしっかり味わい、証しすべき喜びである。私たちは、自分には絶望して悲しんでいても、キリストが真の慰め主として私たちを慰めて下さる、その慰めをいただいている幸いな者である。この幸いを感謝して、礼拝において賛美と祈りをささげ続けるのである。心の底からほとばしり出る喜びを証しして、多くの人と幸いを分かち合うことが一層導かれるなら、それはどんなに幸いなことであろうか!
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