礼拝説教要旨(2009.02.01)        
心の貧しい者は幸いです
(マタイ 5:1〜10) 
  主の2009年を迎えて、1月は元旦礼拝から始めて、四週に渡ってマタイ6章から主イエスの教えに耳を傾けた。父なる神への全幅の信頼をもって地上の日々を生きること、徒に心配ばかりして思い煩うことなく、「神の国とその義とをまず第一に求める」こと等、大切な教えを主は明確に語っておられた。私たちの信仰生活におけるカギは、やはり主イエスの教えに聞き従うことである。そのことを覚えて、改めて「山上の説教」に耳を傾けてみたい。主の教えに聞き従うなら、私たちの歩みは一層確かなものとされるからである(※聖書個所はやや前後するが・・・)

1、「山上の説教」は、主イエスの教えが最も簡潔で、最も的確にまとめられているものとして知られている。集まって来た大勢の群衆を見て、山に登り、おすわりになって、ご自分のもとに来た弟子たちに語られた教えである。弟子たちにじっくりと語られたものであり、そこにいた群衆にも分るように語られていた。中心は、天の御国の民の生き方についての教えであり、御国の民の幸いがどのようなものであるかが語られている。分り易い反面、群衆は驚きこそしても、到底理解し難い教えでもあった。そんなこと本当にできるのか・・・と戸惑う内容であったからである。

 主イエスは、まず天の御国の民の本質から教え始められた。その本質、または特質について、「幸いです」との祝福の言葉を繰り返して強調された。3節から10節まで、八つの幸いに触れ、3節と10節はどちらも、幸いの根拠は「天の御国はその人たちのものだから」と語られた。神の民にとって、何が本当の幸いなのか、それは「天の御国の民」とされたことである。この点で世の人々と神の民、御国の民とは決定的な違いがある。その違いが鮮明となるのが、3節以下、主イエスの一つ一つの言葉である。主は先ず、「心の貧しい者は幸いです」と言い切っておられる。問われるのは人の「心」であると。

2、「幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。」(文語訳)原文は感嘆文で、「幸いなるかな」または「幸いなことよ」との訳が、より相応しく、「ああ、何と神に祝福されていることよ」との思いが込められている。心の貧しい人々こそ、神の祝福から決して漏れることはない、と主は言われた。ルカ福音書では、弟子たちを見つめながら、「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから」と。「貧しい人たちである、あなたがたこそ幸いです」と、目の前にいる弟子たちが、神の祝福に与っている幸いな人であると宣言しておられるのである。

 けれども、何故心の貧しい者が幸いなのか、何故貧しい者は幸いですと言えるのか、大いに反論が予想される。心が貧しく、また生活に困窮していて、どうして幸せと言えるのか。そんな人は、到底幸せとは思えない悲惨の中にいるのではないか・・・と。ようするに人は自分の幸福感について、結局は自分中心にしか考えていないものである。それに対して、主は本当の幸いを弟子たちに気づかせようとされた。当人が気づいていなくても、神の前に「心の貧しい者」こそ、神から祝福された幸いな人なのである。自分の心には何らの良きものがないと気づいている、その心の貧しさが神に良しとされ、神からの豊かな満たしが約束されるのである。

3、神の前に「心の貧しい者」とは、自分には神に良しとされることが全くないと悟る人である。神に対する罪を認め、神の裁きの前に怯えてうろたえるしかない自分を知る人が、神の救いに与る幸いな人である。主イエスのみもとに集まる弟子たちこそ、天の御国に迎え入れられる幸いな人たちである。だから主は彼らに向かって、「幸いなことよ。あなたがたこそ神の祝福に与った人たちです」と語って、本当の幸せに気づかせておられた。と同時に、いつまでもその貧しさを忘れないように、決して心高ぶることのないようにと諭しておられたのである。

 この世の現実では、物質的には貧しい生活をしながら、心は満ち足りた豊かな生活をする人がいる。反対に物質的に裕福な生活をしていも、心は満ち足りることなく、あくせくと富を貪る人がいる。一般的には、この後者を「心の貧しい人」と言う。そのような人は、神の前にも人の前にも心高ぶって、自分の足りなさや無力さを決して認めることはしない。それに対して、自分の心の中に良きものがないと神の前に認める謙虚な人、本当の意味で自分の「心の貧しさ」に打ち震えている人、そのような人が神からの祝福を受けると、主は語られたのである。(※「新聖書注解」新約1:91頁:「富の多少ではなく、自分の心の破産状態を知って神によりたのむ者が<幸い>なのである。」)

<結び> 私たちは誰でも幸福になりたいと願っている。けれども、本当の幸福を得ている人は少数かもしれない。この世の多くの人が、何事も前向きに捉えるなら、不幸も幸せの始まり・・・と言って、その人の心の持ち様でどうにでもなると言う。果たしてそれで良いのだろうか。本当の幸福、本物の幸せは、そのような人の気持ちに左右されるものではない。神がその人を祝福していて下さる幸いは、揺るがないもの、完全なものである。主イエスに従う神の民は、本当の意味で心貧しいからこそ、神によって報われ、満たされる、最高の幸いを得ている人々である。その幸いは、人生の順境にあっても、また逆境にあっても決して変わるものではない。私たちはそのような幸いを得ている者として、天の御国が約束されているのである。感謝と賛美をもって地上の日々を歩みたいものである。