「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」(25節)主イエスが語られたことは、人の「いのち」への洞察の大切さ、造り主なる神がおられ、その神が私たち一人一人を心に掛けていて下さることを知りなさい、との教えであった。心配して心を騒がせるのは、確かな神の守りを忘れることによるのである。
1、そこで主イエスは、尚も繰り返して「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい」と命じられた。信仰が薄いために、神の守りを見失うことがあるとしても、神の守りが失われるのではない。神の民に対する神の守りは絶対である。神が共におられ、ご自身の民を守り導いて下さることは、全く揺るがない。たとえその人が忘れていても、またぼんやりしていたとしても、神はその人を見守り、また導いて、必要をことごとく満たして下さるのである。(31節)
多くの心配事、また日常生活における多くの思い煩いは、神を知らず、神無しに生きようとする人々の心を襲うものである。神無しで自分の知恵や力に頼るには、時に、必要以上に強がることがなければ前進できず、同時に、自分の限界に悩まされるものである。周りの人を見て安心したり、反対に恐れを抱いたり、何かを手にしていなければ不安がつのるばかりである。それ故に「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか・・・」の心配は、神を知らず、神を恐れることを悟ることのない「異邦人」のすること、神の民は、神に守られている確かさに立ちなさい、と主は言われたのである。(32節)
2、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(33節)神を信じる神の民にとって大切なこと、それは神への信頼であり、神が支配しておられることへの全き服従である。あれこれ言わず、心から神を信頼する者のために、神が一切を引き受けて下さっている。神は全知にして全能なお方と信じているなら、その神に全てを任せることに何の異存があるだろうか。そうであるにも拘わらず、自分に頼るなら、それは神を信じない者のすることである。全知全能の神を信じ、この神と共に歩む者に、神は豊かに報いて下さるからである。
「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(34節)心配や思い煩いというものは、真に厄介でしつこいものである。今日の必要は満たされたとしても、明日はどうなのか・・・と、心配は尽きない。しかし、主は言われる。「あすのための心配は無用です。・・・」「あすのこと」も神が支配し、神が心配していて下さるのである。「労苦はその日その日に、十分あります」とは、一日一日の務めを果たし、神を仰いで生きることは、神の民にとってこの上なく尊いことという意味である。「分っている・・・・、でも心配・・・」という思いに対して、きっぱり「心配は無用!」と言い切っておられるのである。
3、それでもまだ心配し、思い煩い、また思い悩むのが私たちである。自分の信仰の薄さを嘆いたことはない、と言う人はいないであろう。昨年末以来の経済の悪化は深刻である。正しく「明日」からの生活が困窮する人が、身近にいるかもしれない状況である。遠くの「明日」である「老後」は、誰にも例外なく近づいており、その生活をする人は着実に増えている。主イエスは、将来のために備える必要はないと言われたのではない。今の必要はもちろんのこと、将来のためにも、神は私たちに必要なものは全て知っておられることを悟りなさい、と言われたのである。神の国を求め、神の義を追い求めて生きることによって、神が必要を満たして下さる幸いに浴する者となりなさい・・・と。
25節以下、主イエスは「心配したりしてはいけません」「心配するのはやめなさい」と繰り返し命じられた。「心配は無用です」とも言明された。神を信じる人々が、神を知っていながら思い悩むことのないように、心配に押し潰されることのないようにと励まして下さっている。神の民にとって、神が共におられることは何よりの力であり、幸いである。たとえ「心配」に襲われたとしても、神に目を転じることによって、「心配」は取り除かれる。どんなに挫けそうになったとしても、神を仰いで力を得る者は、必ず立ち上がることができるからである。神を待ち望む者に「心配は無用」なのである。
(※イザヤ40:28〜31、詩篇68:19〜20)
<結び> 私たちにとっての心配事、心を悩まされることは、日々の生活のことや将来のことばかりではない。世界を見渡す時、戦争のことや飢餓のこと、貧困のこと、災害のこと、病気のこと、実に多くの忘れてはならないことが満ち溢れている。世界の経済のことや地球温暖化のこと、国と国との関係のことなど、大きな不安があると報じられることが余りに多い。どれも無視することはできないとしても、徒に恐れの中に巻き込まれることなく、神に信頼することによって「心配」から解き放たれるよう導かれたい。
神の絶対的な守りの中にいることを信じて、今日を生きる者としていただきたいのである。私たちのいのちは神からのものであり、神と共に歩むことこそ私たちの幸いだからである。一日一日、私たちが成すべき務め、「労苦」を十分に果すことによって、確かな歩みをさせていただこうではないか。そのようにして神の民としての歩みを全うしたいのである。
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