「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。・・・・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(24節)主イエスが語られたことは、あれもこれも、心が分れていたなら、肝心なことが見失われ、一番大切なことからは遠ざかるばかり・・・との警告であった。「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」(25節)
1、何を食べようか、何を飲もうか、そして何を着ようかと考えるのは、日々の心遣いとして当然のことである。けれども、それらの心遣いが次第にその人に重く圧し掛かり、「心配」や「思い煩い」となるのもまた事実である。こうした心配や思い煩いがどこからくるのか、なぜその人を悩ませるのか、主イエスはその根本を問うておられた。それは「いのち」に対する洞察であると。「いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」人の「いのち」について、その「いのち」を宿す「からだ」について、造り主を忘れると、日々の心配は尽きなくなるのである。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」(26節)神が造られた世界に目を留めてみなさい、空の鳥が豊かに養われている事実があるではありませんか、と主は言われたのである。「見なさい」とは、よくよく、じっと見つめなさいということで、「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」と言われるのも同じである。よく考えてみなさいという意味である。ぼんやり通り過ぎてはならず、神の御手の業、そして御手の守りはこの地に溢れているのである。(「ゆり」:花、※野生のアネモネ:一日で枯れる)
2、神は空の鳥を守って養われるばかりか、それ以上のものとして人間をお造りになり、人のいのちをこの上なく大切なものとして養って下さるのである。野のゆりの他、多くの草花の美しさは、それに目を留める人の心を打つものである。けれども、ぼんやりと見過ごす人、また何の関心も示さずにいる人もいる。神がその草花を美しく装っておられることに気づくように、主は語っておられた。そのことが分ると、人にいのちを与え、日毎の必要を与えて養って下さる神の守りに、私たちの心が開かれるからである。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。・・・」(27〜29節)
心配や思い煩いの多くは、自分と自分の周りのことばかりに気を取られ、自分の能力の限界の中で、全てを推し量ることによる。こうしたらああなる・・・、ああしたらこうなる・・・。心がまさに分裂するかのように、まとまりがつかなくなるからである。だからこそ、心を神に向けること、二心でなく一心に神に向くこと、神にのみ仕えることを教えておられる。神の見守りは、空の鳥や野のゆり、野の草花に目を留めるなら、余りに明らかではないか。人間のいのちは空の鳥よりも遥かに尊いもの、人間のからだは野の花よりも豊かに養われているものと悟りなさい、と主は言われたのである。(「心配する」:心がいろいろなものに裂かれ、乱れること)
3、「空の鳥を見なさい」も「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい」も、よく見なさい、よくよく考えなさいと、熟視すること、熟慮することを命じている。神の御業をよく見て、よく知り、よくよく考えて、その上で、人間がどれだけ神に愛され、見守られ、養われているかに気づきなさいと言われている。空の鳥が種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしないにも拘わらず、飛び回って餌を得ているのは、神の養いがあるからである。野のゆりが働きもせず、紡ぎもせず、そこに咲いているのは、神が装っておられるからである。「・・・・ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。・・・・」(30節)
主イエスは、教えを聞いていた者たちに「信仰の薄い人たち」と言われた。「ああ、信仰の薄い者たちよ」と嘆いておられたのである。心鈍い者たちに向かって嘆いてはおられたが、決して責めてはおられなかった。日々の生活において、信仰の薄さや小ささの故に、悩んだり、心配したり、元気を失ったりする者たちを思いやり、だから、神を仰いで信頼することを学びなさいと言われるのである。「だから」「そういうわけだから」と繰り返しておられる。視点を目の前のことで狭められることなく、天を仰ぎ、この世界に広がる神の御業の大きさに目を向け、神に守られている幸いに気づく人は、何と幸いな人かと言われたのである。
<結び> 私たちは、神に豊かに養われ、守られている幸いに気づいているだろうか。私自身は、心鈍く、自分の信仰の薄さを嘆くばかりである。神に祈る時、「不信仰な私をあわれんで下さい」と祈るしかない、そんな者である。けれども、自分勝手に信仰があるとかないとかを云々することなく、神の御業を見て、神に信頼することを学びたいと思う。ともすると私たちは、自分に信仰があると思っている時は元気で、心が弱ってくると、信仰がないとか薄いとか、今スランプだ・・・とか、随分勝手に自分を評価している。それは全くの身勝手であって、常に見守って下さる神に対して、もっともっと信頼すべきであろう。神は父として、私たちを養って下さっている。空の鳥を見て、また野のゆりを見て、神の豊かな養いに感謝をささげる者とならせていただきたい。
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